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基本的な型を身に着けているから崩しても良いものになるのではなく、崩しが上手い人は元々の資質と才能で崩しが上手いのです

これは、絵や書だけではなく、何事においても言える事です。

「基本が出来ているから崩せるのだ、ピカソは基本的なデッサンがあれだけ上手いから、ああいう崩した絵が描けるのだ」

と、主張する人がおります。しかしそれは、一見良い事を言っているようで、本質的には外れています。

事実は

「崩した絵や字が上手い人は、元からそういう資質と才能を持っているから、それが上手いのだ」

そして

「その人の表現上、必然から崩したものが必要だった」

です。

多くの人が言う「基本が出来ているから崩せる」というのは、実際には以下のような意味です。

「崩す系の資質と才能のあまり無い人が、基礎も無く崩したものは酷いものだけども、基礎を学んで修練を積み、そのベースがある上で、さらに崩し方も学び、お手本通りに崩したものは、まあ、悪くはない」

「崩す系の資質も才能も無い人が、学びも修練も必然もなく、テキトーに崩したものは雑で、酷い手抜きにしか見えず、見られたものではない」

という事です。

文化的基礎は、人のレベルを底上げしますから、当然そうなります。

一般の人の趣味、あるいは一般レベルの画家や書家であるなら、そのような「基礎があるから崩せる系の説」は当てはまらなくはありません。

しかし本当の創作者や、趣味でも特別に資質と才能がある人については話が違って来ます。【美は、何かの学習や方法の先にあるのでは無い】からです。それが出来る人は無条件で出来るのです。

もちろん、カチっとしたものも、崩したものも、全てにおいて素晴らしい人もおります。楷書も行書も草書も、もっと崩した書も、全てにおいて上手い人。

しかしだいたいは、ユルい系は得意だけども、カッチリしたものは苦手、という事が多いようです。あるいはその逆・・・

「カッチリした仕事が出来るなら、崩す事は容易」なんて都合の良い事はありません。

「どこかの誰かが言った、それらしい、良さげな言葉」

を知った事で、全て分かった気になるのは危険です。

「一見良さげな言葉」は、一言覚えてしまえばそれで済むので多用されます。しかし、それは本質とは違います。

事実を詳細に確認するのは、手間と時間がかかるので、殆どの人が避けます。

創作を仕事にしているなら、深い場所にある事実の詳細を、自分の感覚と身体に具体的に確認させ、自らの武器として実用出来るようにしておかなければなりません。

自分の師匠からの言葉であっても、その言葉を聴いた本人が検証する必要があります。それは、師匠を尊敬しないという意味ではなく、あらゆる発言が的を射ている人は存在しないという意味において、です・・・


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