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わたくし、人為・人造物にホンモノもニセモノも無いと考えます

良く、ホンモノ・ニセモノの議論が起こりますが、私は表題に書いたように、本来的には人為・人造物にホンモノもニセモノも無いのではないかと思っております。

私のメインの生息地域である和装業界・・・そして、その他伝統工芸系などでは特にそういう話題が出ますが、ではその「ホンモノの定義」って何よ?となると、殆どが曖昧なものしか無いのです。

古今東西、人為・人造物はどんなものであっても、時代が変わり社会の人々の価値観が変われば、そのモノ自体の存在意義が変わってしまいます。

それに、歴史が長い国・民族の場合、昔ながらの方法といっても、それはどの辺りの時代の事を言うの?という問題は常に付きまとうわけですから「まあ、これに関してはこの辺りでしょう」とするしか無いわけです。

そんな風にならざるを得ないのを前提としないで「これが昔ながらのホンモノ」という宣言ばかりしていると、矛盾が起こってしまうのです。

まあ「これがホンモノなんだ!ドヤぁ・・・」というものがあると信じたい気持ちは分かるのですが・・・不安ですものね。

例えば、私のメインの生業である和装の文様染めの業界で「ワシは真糊友禅しかせん!全て昔ながらの手作りのホンモノじゃ!」なんて主張する人がいたとします。しかし、結局「その定義を守ったからといって、創作的にレベルの高いものが出来上がるわけではない」という当たり前の事実に直面するのです。

例えば、

「民藝品の素晴らしいものは、創作を意識しない日常の労働のなかから自然に産まれた健全な美を宿している」

これは事実ですが

「創作を意識しない労働として作業すれば、高度な民藝美のあるものが産まれる」

という事は無いわけです。

それは普通に考えれば当たり前の話なのですが、特に伝統が関わると、そういう事実は無視されて「コレがホンモノ」とやってしまい勝ちになるのです。その「コレ」が商材になるし、関係者の優越欲を満たすものになるわけです。

創作的な面だけでなく、技法などに関しても

「ん?これが伝統でホンモノっておっしゃっても・・・生地も染め方も、使う染材も道具も、昔と違うものがいっぱいありますよね?」

「染の部分は手作りかも知れないけども・・・あなたがメインに使っている、ちりめんの生地は機械製糸で、機械織りですよね?その染料は化学染料で機械生産のものですよね?手作りについてどのようなお考えをお持ちで?」

・・・なんてツッコミを受けてしまうハメになります。

ようするに伝統系の「ホンモノ論」の論拠は弱いのです。論拠が弱い程「ウチだけがホンモノだーホンモノだー」と「宣言」の方が強くなり権威を頼るようになります。その権威は「迷信と伝説」という幽霊に過ぎないのですが、彼らはそれを伝統だと思っているのです。それらは実存しませんから、どんなものにも設定出来ます。

そんな状況ですが、現代日本では殆どの人が伝統云々についてはあまり興味がないので「まあ、伝統文化って事なので、ちょっと違和感あるけど、そんなもんなのかな。彼らの世界ではそうなんでしょ。オカルトみたいなものじゃない?」という感じでスルーしてもらえているから弱い論拠でもどうにかなっている感じに見えます。

自然物はただそのままで摂理そのものであり、その個性そのものが最大限に機能しているのですから、それはホンモノ・ニセモノを超えて「それそのもの」ですが、人間は未完成な生き物で、そんな未完成な生き物が自分の欲望によって何かを産み出すわけですから、当然、それは未完成なものになります。

だから「こういう場合はこれが正しいけど、ああいう場合にこれは相応しくないよね」という事が起こるわけです。同じモノでも、環境が変わればその価値が変わってしまう。

人間は、人間の都合で物を産み出し、それを使い、使い勝手や好みを判断し、論評するのですから、絶対的な価値というものは産み出せないのです。人間の意識は、暗闇で懐中電灯を照らしたその範囲だけが見えているようなものですから。

だから、私は「そもそも人造物にホンモノもニセモノも無い」とするのです。

かといって、私は人為・人造物は完璧な存在になれないからダメなんだ、価値の無いものなんだ、と思っているわけではなく、どうやっても自然物のような完璧な存在にはなれない、それが良さであり、尊さであり面白さと考えております。

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例えば、無添加を謳っている食品なのに表示義務のある添加物が入っていたり、プリントの着物なのに手描きだとして、嘘をついて高く売ろうとするのは「犯罪行為」です。良く行われている事ですが・・・

しかし、それはモノの良し悪しとは関係ありません。

そもそも、無添加の食品=客観的に必ず美味しく健康に良いわけではありませんから無添加の食品が無条件でホンモノ、とは言えません。無添加という事実があるだけです。(人体の害になるようなものが入っているのは論外です)

無添加の自然系食品の味わいが今ひとつだったりするのは良くありますし、天然の野菜には独自の毒素がある場合もありますし、腐敗や衛生の事を考えると添加物を加えた方が安全で美味しい、となる場合もあります。目的や用途によって、その価値観が変わります。

生産者や販売店が嘘をつかず、使う人の安全を脅かす事なく、価格がその製品として適正なものであり、用途に適切なモノであれば、添加物が入っていようとニセモノという事はないわけです。買う方も「用途にあったものを選び、納得し、購入する」からです。

例えば、着物姿で立ち働かなければならない環境において、廉価でセンスが良く、ある程度の洗濯耐性がある着物が必要であるなら、その用途に最良のものがホンモノ、という事になります。例えば化繊のプリントのものであったりします。

そういう目的があるのに、豪華で高価な絹の手描き友禅の着物は「ニセモノではないけども“相応しくない”もの」になるわけです。

キャンプで使う食器に、作家ものの繊細な器を持っていく人はいませんよね。持って行ったら野暮の極みですし。そういう場では美しい作家ものの器は、ただの的はずれなものに過ぎません。そこで必要とされるのは「キャンプ道具としてのホンモノ」です。

以前、再生紙配合とされて売られていたトイレットペーパーが、実は規定の量の古紙を使っておらず、新品のパルプの分量が多かったので問題になった事がありました。

昔なら、新品のパルプの方が多ければ文句を言う人はいなかったと思いますが、環境意識の高い人にとっては、その背景にある問題が大切なのでその嘘は許せないわけです。

そのように、その時々の価値観によってモノの価値は変わり、方法論とか、手法とか、何かしらの決まりに則る事自体をホンモノ・ニセモノの定義に使えないのです。

さらに例を上げれば、地元の固有種の自然栽培のぶどうを用い、古来からの醸造法でワインを醸造したからといってそれが美味しくなければ、ワインとしてホンモノではないのです。それは「古来の醸造方法をなぞりました」という事による生産者側の安心や自己満足、もしくは「それを正義とする人々たちが楽しむ会」あるいは「その物語自体が商品」でしかありません。

それは「手前勝手な宣言」で、そこには、他者との交流がありません。

特に、伝統系ではそういう態度が多いように思います。

彼らは「〇〇だからホンモノ」と宣言しますが、ではそれが製品、制品として美しいのか、良いものなのか、使う人にとって、有益なのか、となるとそれは置き去りなのです。「とにかくこれがホンモノであって他はニセモノ」と主張し、ユーザーの意見や感想は聞かず、自分の業界界隈の価値観に閉じこもるのです。

もし、その宣言が正しく、本当に社会的に魅力あるものとされるなら、そもそもそういう宣言自体が必要ありません。現実的に今機能しているものは、むしろ意識されないのですから。

嘘がなく、誠実に製造・制作したものであり、それを誠実に伝え、それが必要な場所に届き、そのモノを使う人が幸福になり、それによって制作者も幸福になり、さらに理想を言えば、文化・文明的に少しでも前進するものであれば、それはどんな作り方をされたものであろうとホンモノではないでしょうか。

本来的には「ホンモノ」というのは、人々の創作的イメージが現実的な形を持って機能する結果を言うのであって、形式や手法自体を言うのではありません。クオリティを落とさないための良心的線引き、そのための決まりを作る事はありますが、その決まり自体が本質では無いのです。

(精神的、あるいは実用的な欲求を創作的イメージとしています。地域の伝統の伝承や、現代人の欲求、その他あらゆる事が含まれます)


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