見出し画像

当事者として自らやるのだから整合性の無い自分への批判や無理解は不快ではあっても影響は受けなかった

私は、独立してから29年程創作品の製造販売のみで生活しておりますが(2023年時)子供の頃から美術その他創作的な物事は好きではありながらも学校の美術の成績はそれ程良くありませんでしたし、学校の何かの創作系コンクールでも評価された事は殆どありませんでした。

実際、審査する教育者や芸術家たちにウケるような作品を作れなかったからそれは仕方がありませんが、自分としてはそれなりに納得したものを作っておりました。しかし、それは意図はあっても技術と知識不足から一般に理解してもらえるような物になっていなかったと思います。だから評価されなかったのは当然なのですが、しかし後年に思った事を形に出来るようになってもあまり広く受け入れられない事からして、私は「万人ウケしない資質と才能の持ち主」というわけです。それについて悲観しておりません。それならそれ用の対策を打てば良いのですから。

小学生の頃から、美術の授業ではあまり良い思い出がありません。

小学4年ぐらいの頃、学校の近所の公園で写生会をする事になり、私はコンクリートに生えた苔を水彩で描きましたが、それは美術の先生に「ふざけないでちゃんと描きなさい」と怒られた思い出があります。しかも、教室の壁に上下逆さに貼られました(まあ、どちらでも良いといえば良いのですが)自分としては、キレイだなあと思って描いたのですが。アラカンの今でもそういう感じの作品を作りますし、そういう写真も良く撮ります。人間、変わらないものですね。

こんな事もありました。

同じく小学校で(上の件とは違う先生)画家のゴーギャンの事を習った後、ゴーギャンに似せて絵を描けという課題ではありませんでしたが、静物を水彩で描く授業がありました。私は、少し前に習ったゴーギャンの絵を面白いと思い、ゴーギャンのような輪郭線を強調した絵を描いたら「にへいくん、実際のものにはこういう線は無いよね?こんな風に描いてはいけません。実物をちゃんと観て。こんな太い線は無いよね?」と怒られました。

あれ?別に本物みたいに、写真みたいに描きなさいと言われていないから、この前教えてもらったゴーギャンは面白いと思って真似してみたのに「何でゴーギャンだと良いのに、オレがやるのはダメなんだろう?美術ってやっぱ分かんねえ・・・」と思ったのでした。

それに、偉大な芸術家のものを鑑賞し感動し受け止めよ、と子供に強制的に見せた後に、その影響を受けないで、その名画とは全然違う小学生らしい教育者が喜ぶタイプの絵を描けと小学生に要求するのは高度な事を要求し過ぎだと思いますけどね。

同じく高度過ぎるだろ、と思ったのは宮沢賢治の「クラムボン」というお話を聴かされ、それから想起される絵を描け、というもの。もちろん、小学生の当時はただ戸惑っただけでしたが「なんだかすげえ難しい事を言われてんな」とは強く感じました。宮沢賢治のお話は子供向けの話であっても非常に宗教的・哲学的で、ものによっては抽象的ですから(クラムボンは抽象的)これを小学生が「読む」のではなく「聴かされて」想起した事を絵を描くなんてあまりに高度な事を望み過ぎだと思いました。

それから中学になっても特に評価される事はありませんでした。

中3になった時に、たまたま赴任して来た先生が、私の事を評価してくれて、良い成績を付けてくれましたが。

高校は都立工芸高校デザイン科に進みましたが、そこでも先生がたから評価され成績が良いという事はありませんでした。(ちなみに都立工芸は、デザイン科といっても入試でデザインに関する実技や知識の試験は一切無い)

しかし、高校の文化祭とか、その他の創作的イベントは私と当時の友人たちで企画し、積極的かつ自主的にやりました。それらは、後輩たちには影響を与えたらしく、私とその当時の友人たちでやった事が後の授業に組み込まれたと私が卒業した後、後輩から聞きました。

そこでの展示物によって、デザイン系の企業の人から名刺をいただいたり、友人の母上や知り合いの人たちが私の描いた油彩画を購入して下さったりしました。

高校を卒業してから、大手ファッションメーカーに就職し、紳士ものの靴下のデザイン部に配属されましたが、私はそのデザイン室の方針が全く理解出来ず、さらにデザイン室長と全く反りが合わず毎日罵倒され評価されませんでした。私自身はその会社にまるで貢献出来ないまま半年で退社となりました。全くもって迷惑な若者でしたね・・・

その後、料理関係を8年程度やりつつ作品づくりもしておりました。その後三年間、染色工房に営業件染色手伝いみたいな立場でおりましたが、突然工房を潰されてしまい、工房から放り出されてしまいました。まあ、それは幸運だと思いましたので、就職はせず創作家として独立したわけです。

それで独立してからはそれはそれは罵倒や嘲笑をシャワーのように浴びたものです。

「キミなんかが出来るわけがない」「キミ程度の人間はいくらでもいる」「普通の仕事をした方が身のためだよ」その他その他、人はあらゆる罵倒・嘲笑の言葉を創造し、言い続けるんだな・・・とある種の感銘を受けた思い出があります。

もちろん、世襲ではなく資本も人脈も全く何も無い状態でのスタート(+元いた工房の代表からの嫌がらせが酷かった)ですから、筆一本買うのも大変です。営業する交通費も辛い。部屋を借りるのも、自営業を始めたばかりの人間は審査が通りません。まだインターネット時代では無かったので、営業するにも情報が無い。罵倒や嘲笑は、美術業界や和装業界関係者だけでなく、不動産屋さんや、金融関係の人々からも沢山受けます。

そんな評価の無い私ですが、どうにか創作を生業に出来ているのが面白いです。私の事を嘲笑した人たちの殆どは消えましたし、独立当初から技術自体はいつも巧いと言われ下手と言われた事はありません。もちろん創作面や仕事上で喧嘩を売られれば返り討ちにしておりました。そういう面は、キチンとしておくべきです。

独立して丸29年経った今もスランプや枯渇も無く、やりたい事、描きたい事、書きたい事が沢山あって時間と体力とお金が足りません。

上記のように、子供の頃から、創作や自分の歩みに関して沢山の罵倒と嘲笑をまるでシャワーのように浴びて来ましたが、私自身は「俺は絶対に間違っていない」と確信していたのです。ですから罵倒や嘲笑は私が何かを作る際や進路を決める際の邪魔にはなりませんでした。それで火が着く事があっても落ち込む事は全くありませんでした。毎日丸一年語っても言い足りないぐらいに不快でしたけども!心が落ち込むのと不快感は同じではありませんからね。

何にしても、創作する当事者は私で、外部のタワゴトは関係無いのです。自分の人生を家族も巻き込んで歩むにあたって、私の事を知りもしない人に無責任にあーだこーだ言われて、それで考えを変える方がおかしいのではないでしょうか。もちろん、整合性のあるアドバイスには耳を傾けます。

何を言われようと何をされようと「俺がやりたいからやっている」のであって、それ以上でも以下でもないのですから、やりたければあらゆる手を使ってやります。

「俺が社会からあんたのように扱われたら自殺するよ」と色々な人から言われましたが、私が何かを作って販売して生活するのと、人間が持つ嗜虐性や優越欲からなる罵倒や嘲笑は関係無いのですから、自殺なんて感情は全く湧いて来なかったですね。もちろん自分自身で「ああ、俺には無理なんだな」と納得すればスグに止めましたが、そう感じた事は全くありません。

私は「何か作っていないと死ぬ病に罹患している」からなのかも知れません。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?