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東博の最後、明治時代のコーナーに人間国宝系のものが飾ってあるのを観ると、いかに江戸後期から明治~昭和で価値観が変わったかが分かります

先日、仕事の用事で出かけ、用事が済んでから、久々に東京国立博物館へ巡礼に行きましたが(うちの工房は東博の平常展の年パスが支給される)最近は最後の展示室の明治時代のコーナーに、東京近代美術館工芸館所蔵の、人間国宝系の工芸品が飾ってあるのですね。

・・・私にはそれは違和感しかありませんでした。(個人の感想です)

ただでさえ、展示室が、縄文から江戸末期→明治と部屋が変わる際に、ひどい落差を感じるのですが、先日飾ってあった人間国宝ものの「場違い感」はそれ以上に激しかったです(もちろん全てがそうだと言っているのではありません)日本文化の大河に触れた後ですから余計に感じます・・・

まあ、博物館ですから、年代別に並べればそうなるのは仕方がないとも言えますが。

しかし、近現代の日本は・・・これを東博にある日本の伝統文化の末尾に加えるのですね・・・という事は、これが価値であるとするのですね・・・私には理解出来ませんが・・・

むしろ、特定の美術団体の作家による工芸美術品系ではない、もっと実用的な道具や器、その他の実際に社会に流通していた物の良品だと近現代の物でも良いものが多く、そのような作品なら江戸末期から明治・昭和・平成の展示室にあっても違和感が無いでしょう。

そうそう、先日の東博の企画展「150年後の国宝展」の方がずっと東博全体の展示物としては自然で良かったです。これは、手作りのものに関わらず、色々な工業製品、電化製品やキャラクターグッズ、チェーン店、その他「現実に多くの人々に触れ、使われ、影響を与えていたもの」を集めたものなので鍛え上げられ方が違います。こちらの物たちが持つ「勁さ・しぶとさ」の方が、日本文化の流れからいってずっと自然です。

対して、人間国宝ものは、手作りの作家作品ですが、志野の茶盌はプラスティックみたいだし、陶芸、漆芸に関わらず絵付けものはプリントの商品みたいだし、何より気味悪く感じるのは、工芸品に歪んだ個人の表現性と芸術コンプレックスがある事、さらに「使う人や民衆へ向けてではなく、特定の身内の人たちへ媚びた感じ」がべったりと貼り付いている事。

江戸末期までのものは、普通に日本人が日本人のために制作した健全な感じがあるのですが(それが民衆であろうと権力者であろうと)明治時代以降の、お作品系工芸品も、いわゆる美術品も、一部を除いてなんとも古臭いし、気持ち悪い。

ああいうのは・・・例えるなら、ちょっとズレたセンスのファッション好きの自分の父親が自分が若い頃に着ていた服を出して来て、それを身に着け自慢し悦に入る姿を見た時のような恥ずかしさというか・・・

私は現実的に、若い頃からあの手のものは肌感としてあの手のものが苦手で、作品、思想共に一切参考にしませんでしたが、今回観て「参考に出来るわけが無えだろ・・・」と改めて思いました。

東博に行くといつも思うのですが(違う言い方で同じ事をシツコク書いて申し訳ありませんが)日本の伝統の素晴らしいものをたくさん観た後に、最後にああいうのを見せられるのは「素晴らしい懐石料理を食べた後の甘味にジャンクで不味いお菓子を出された気分」になるので、嫌なものです。

そうは言っても、私はそれはそれとして丁寧に観ます。

まだ江戸時代の予熱のある分野のものは明治時代のものでも良いものがありますし、まだ日本の油彩画黎明期の頃の絵などは、未完成ながら当時の人の情熱を感じる良いものですし、時折、分野を問わず単体の作品としては良いものもありますので・・・

明治のものでも、明治初期の超絶技巧系の工芸品は、造形的なレベルは高くありませんが、制作に関わった人たち全体から発する、国際的な市場に「日本ここにアリ!」と知らしめようと突き進んだ気迫と、超絶技術自体が持つ美がありますから、ああいうのは違和感を感じないのですが・・・

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ヘッダー写真は、東博所蔵の鼠志野「鶺鴒」です。実に素晴らしい。東博の展示物の殆どが撮影可なのが嬉しいですね。


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