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母子手帳には花が咲く

「看護師さんだって忙しいんだから、寝てばかりいないで動かないと」


産褥入院中、出産後3日目の午前中のことだっただろうか。

病室に様子を見に来た主治医からこんな言葉を掛けられた。


主治医の表現は適切で、私はちょうど、電動リクライニング式のベッドに横たわったまま、ナースコールで呼んだ看護師に、重くて一人では動かせなかった入院用荷物のトランクの中身を確認してもらっているところだった。


確かにこの一場面だけを見たのでは、産後3日にもなるのに、怠けてベッドから動こうとしない産婦が、看護師を顎で使って楽をしている、という風に見えてもおかしくないかもしれない。


しかし、この時の私には十分な言い分があった。


ここからしばらく分娩についての話題になる。

私自身にとっては、半ばトラウマになり記憶に蓋をしていた難産について、二週間ぶりに振り返る機会となる。

少し生々しい表現になることをお許しいただきたい。

読みたくない方は、以下の特に「分娩室に入るまで」と「回旋異常発覚から出産まで」のセクションはスキップしていただきますようお願いいたします。


●分娩室に入るまで


入院直前に陣痛の中食べた雪見だいふくとポケモンパン。結果的にこれらが私を救った。

出産日前日の夕刻、陣痛とおぼしき腹痛で入院。

周知のとおり感染症流行のため、夫は陣痛室への入室も叶わず、ここで退院までお別れとなった。


この時点で子宮口は5センチほど開いていたが、翌朝まで12時間以上微弱陣痛が続き、一向にお産が進む様子が見られなかった。

そこで主治医の判断により陣痛促進剤の投与を開始。

ただでさえ恐ろしい波のような痛みが人工的に更に強くなると思うと怖くてたまらず、同意書へサインした文字はもやしのようにひょろひょろだった。

ただただ机に置いた枕にしがみつきながら、痛みがくるたび深呼吸の前置きとして「大丈夫大丈夫」と口にしながら、耐えに耐え続けた。

昼前までには子宮口10センチ(全開)となり、いよいよ分娩室へ移動した。


●回旋異常発覚から出産まで


しかしここからもまた大変で、促進剤を入れているはずの陣痛がなかなか強まらない。

もはや大丈夫とは言っていられなくなり、自分が自分でも聞いたことのないような唸り声をあげているのが分かった。


「息を吸って、一番痛いところで息を止めていきんで、息を吐いてもう一度息を吸ってもう一回いきむ」といった要領でいきみ方を教わるも、そもそも一番痛いのがどこなのかが分からない。

ただし、枕元の機械から聞こえる音声で、いきむたび胎児の心拍が下がり危険な状態になっているのは知っていた。


どれくらい時間が経ったのかは分からないが、徐々にまわりにいる人たちが増え、いつの間にか酸素マスクをつけられ、あるタイミングでエコーを当てられた時に聞こえた「回旋異常」という言葉が何を意味するかは、朦朧とする意識の中でもはっきりと分かった。

そして、手元にあった麦茶を取り上げられた時、帝王切開の可能性があることを悟った(全身麻酔での手術を受けた際、絶飲食をした経験があった)。

陣痛が続く中、採血や心電図、移動式のレントゲンで撮影されたことも、主治医より三十歳ほど年上とおぼしき非番のベテラン医師が呼ばれてきたことも、明らかにそれを物語っていた。


ベテラン医師がエコーを確認し、そばについてくれて何度かいきむも、なしのつぶて。

遂に「押してみよう、これで駄目なら」という言葉が聞こえた。主治医の「駄目ならカイザー」という言葉もはっきり聞こえた。

そして、一回目はチャンスを逃し、二回目のチャンスだっただろうか。

本当にぐいーっとお腹を押されたら、なんとこれが、出たのである。

午後三時前、入院からもうすぐ一日が経とうかという時刻であった。


その瞬間はただただ呆然としてしまい感動どころの話ではなく、間違っても涙など一滴も出はしなかった。

涙の代わりに二リットル近くドバドバと出血して完全な貧血状態となり、子供よりも先に点滴の袋がそばへ寄ってきたくらいだ。

主治医に言わせても「こういうお産はあまりない」というくらい大変な、いわゆる難産であった。


大分派手に裂けたという股に麻酔をかけられ一時間半ほどかけて縫われながら「これで鱒寿司が食べられるう」「ああ~ん痛い」(といっても、陣痛に比べれば時々針金の端っこで押されるような可愛い痛みで、半分どうでもよくなっていた)などとぼやいたのが産後直後の最初の台詞だったと思う。

退院後無事食べた富山の鱒寿司

その後数時間分娩室で一人で休憩したのだが、分娩台に横たわったままスマホのSpotifyから聴いた篠原涼子の「恋しさと せつなさと 心強さと」(その日誕生日だった小室哲哉プロデュース曲)を私は一生忘れないだろう。

●一夜明けたものの


病室へ戻るにあたり、看護師からは、大量出血による貧血症状がひどいため一晩起き上がることは許されないと言われた。

導尿を行い、点滴を替え、分娩台からストレッチャーに乗り移り寝たまま病室へ運ばれ、再びベッドへ移動した。

かなり遅くなった夕食もベッドに寝たままとった。

そして、眠ったような眠らないような一晩を過ごした。


写真ひとつ撮るにもこの有り様。トレイにあるきれいな青い錠剤がパルタン錠という子宮を収縮させるための薬だ。服用すると生理痛のような腹痛が起こる。

辛かったのは、とにかく下半身だった。

関節という関節がいかれていた。

ずっと開いていた両足がブルブル震え、股関節がかたまり、お尻が板のように硬直し(たように感じられた)、尾てい骨が阿呆みたいに痛くて仰向けから動けない。

しかも、分娩時のいきみと、下半身を庇おうと酷使した上半身の肩まわりと両腕は立派に筋肉痛である。


お昼までに点滴が終わり起き上がることも許され導尿も外されたものの、とにかく尾てい骨が痛くて、ベッドの上で体勢を変えるのも、床に足を下ろすのも、歩行器に掴まって立ち上がろうと踏ん張るのも、立ち上がること自体も、歩くことも、お手洗いに行くのも、全てが「いてててて」とお友達であった。

しかも産前は一度も浮腫んだことなどない足がパンパンに浮腫んでしまい、歩行には違和感があった。


このような状態であったから、出産後二日目も自室から出ることはできず、手近なもの一つを動かすにもナースコールを押すほどであった。

それゆえ、シャワールームへも行けず洗濯もできず、当然のことながら授乳も母子同室もできなかった。


ナースコールで呼んだある看護師に、足元の重い布団を動かして欲しいと頼んだ時「まだこれも難しいんですか?」と言われたのに違和感を覚えたのも、ちょうどこの産後二日目であった。


●寝てばかりいないで


産後三日目の朝。

なかなか眠れず、夜中にベッドの上でハンドクリームを使って尻や腰を中心とした下半身をセルフマッサージし、足首や股関節をまわすストレッチをし、苦しみながらも腰を曲げたままなんとか立ち歩けるようになった私は、早朝から休み休み荷物整理を始めた。

しかし、ボロボロの身体は長くは持たず、朝御飯が終わる頃にはすっかり疲れはてていた。


長々と書いてしまったが、ここで冒頭の記述に戻るのである。


「看護師さんだって忙しいんだから、寝てばかりいないで動かないと」


主治医は確かにそういう趣旨のことを言った。

正直なところ、私はこの一言ですっかり気が動転してしまった。


寝てばかりいないで?動かないと?

私、今朝めちゃくちゃ頑張って動いていたのですが?

何故その時見にきてくれなかったのですか?

そもそも尾てい骨が痛すぎるのですが?

それでも更に頑張れと…?


同時に脳裏に浮かんでいたのは、うつ病で休職していた頃、リワークの作業療法士さんが私にかけてくれた言葉だった。


「あなたは無理や我慢をしてはいけない人間なんだよ。頑張りすぎてはいけないんだよ。」


分娩の主治医と、リワークの作業療法士。

外からきた頑張れという言葉と、内なるもう頑張るなという言葉。

頑張って荷物整理をして、消耗して、それでも動けと言われて、もしかしてこういう時は頑張らなきゃ駄目?いやでも私は…

果たしてどちらを信じたら良いのか。

混乱した私は号泣しながら、うどん(どう見ても2玉あった)の昼食を全て平らげた。


母乳のためだと思うのだが、2玉はあった。
さすが讃岐である。

●もっと頑張らなきゃ駄目?


午後になっても混乱は続いた。


昨日「まだこれも難しいんですか?」と言った看護師が来たので「みんな産後すぐ歩いてるんですか?」と尋ねると、普通はそうだとの返事。


だんじりの山車のように元気な看護師がやってきて、私を無理矢理立たせトイレへ押し込んでくれもした。

その時私はなにを思ったか、便器に座ったまま太ももを殴りながら「おしっこ出ろよ!たまってんだろ!」と自分を怒鳴りつけた。

すると、おっかなびっくりではあるが少量のおしっこがチョロチョロと出た。

そうかあ、やっぱりちょっと無理した方がいいのかあ、などと思ったりもした。


でも、やっぱりおかしい。

だってこんなに尾てい骨が痛いのに、それでも頑張れだなんて。


私の胸の内には、うつ病になった時に得たもう一つの学びが浮かんでいた。

それは「自分の気持ちを伝えること」

他人は案外自分のことを見ていない。

自分の気持ちは自分で言葉にしない限り決して伝わらない。察してもらおうなどと思っていては永遠に伝わらず、自分を追い詰めるだけだ。


●言葉で窓を開く


夕方になり、ある看護師の誘いでシャワーへ行った私は、その看護師に胸の内を打ち明けた。

昔仕事でうつになったこと。頑張ってはいけないと言われたこと。お産が辛かったこと。

看護師は一緒にゆっくり歩きながら、急かすことなく聞いてくれた。とても有り難かった。

そしてそれが結果的に呼び水となったのだった。


病室から夫に電話し、これまでの顛末を大泣きながら全て話し、意見を聞いた。

夫からも「それはなにかおかしい」「病院側におかしいって言った方がいい」という意見を貰った。

怖かった。

「こんなのおかしいです」と訴え声をあげるということは、今までの私が最も苦手としてきたことだった。

おかしいのは自分のほうじゃないかと何度も思った。

それでも腹をくくった。

きっと今こそが自分の気持ちを伝えるべき時なんだ、そうに違いないと。

そして心を決めた私は、遂にナースコールのボタンを押したのだった。


翌朝、歩行器を押して自販機まで買い物に行くと、主治医とばったり出会った。

主治医は私がよろよろ歩いているのを見て、昨日とは少し違う雰囲気で「頑張っていますね」と一言そう言った。

「はい、頑張ってます!」と私は笑顔で返した。


言葉で窓を開いた、と思った。


●母子手帳には花が咲く


前夜のナースコールの後一体が起きたか、ここで詳しく書くことはしないが、上記のやりとりこそが全てだ。

入院から退院まで、そして今後のケアについて、私と私の家族に関わってくれる全ての医療スタッフに人生最大級の感謝と尊敬の念を贈りたい。


退院二日前のお祝い膳

そして私は、例え図々しくとも胸を張りたい。

私は自分を信じ抜くことができた。

私はやはり、頑張ってはいけない人間であった。

しかしその代わりに、自分の気持ちを伝えられる人間として、実践を通して一つ成長することができた。


だからといって天狗になってはいけない。

常に客観的視点を忘れず、いろんな人と関わって、自分の立ち位置を見分けなくてはならない。


ネットで調べたところによると、分娩において回旋異常となる確率は実に数%程度。

言い方は良くないかもしれないが、大変レアなケースらしい。

そしてそれゆえ危険度も高く、産後の母体への影響も残りやすいのだと。


しかしこんなことごときでへこたれたくはない。

ピンチの時ほど冷静になり、むしろ面白がるのが私の性分だ。

就活中に骨折した時も、家に本やCDを取り寄せて沢山吸収した。

うつ病になった時も、自主的にリワークへ通い闘病仲間を見付けた。

縁故のない四国へ移住してきた時も、プログラミングスクールで新しい知り合いが沢山できた。


退院前日の朝、顔見知りの看護師が母子手帳を持って、病室へ申し訳なさそうに謝りにきた。

「母子手帳に書き損じをしてしまって修正テープを使いたいのですが、良いですか」と聞かれた私は、笑ってこう答えた。

「構いませんよ、人生そんなもんですから」と。

病室に季節外れの花が咲いたようだった。


拙い文章をここまで読んでいただきありがとうございました。
産褥入院中や退院後一週間に作った短歌の連作をネットプリントにて配信中です、よろしければあわせてご覧ください。

🍩食べたい‼️