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進化し続けるエフゲニー・プルシェンコ(c)工藤雪枝(Yukie Kudo)

2020年、11月3日、38歳の誕生日を迎えた旧ソ連、そして今はロシアのフィギュアスケーター、また同時にコーチでもあるエフゲニー・プルシェンコ。私など、フィギュアスケートにおいても1976年(私は当時11歳)のドロシー・ハミルが日本人ヘア&メイクアップアーティストたるスガ(現総理とは全く関係ありません)の「ハミルカット」なる有名になった髪型と共に登場して以来、幼稚園時代からクラシック音楽、ダンス、オペラ、バレエ、舞台芸術、そしてなぜか飛行機、航空力学、器械体操にはまってきた。

故にフィギュアスケートもそうであるが、それぞれのジャンルが重なり合いながら、相乗効果をもたらす点もあり、実に面白くてたまらず、フィギュアスケートも男子、女子、アイスダンス、ペアと全ての種目を観てきたのである。先だってもこんな #NOTE 記事を書いたぐらい。

この2003年の演技を観て、圧倒された私において、「プルシェンコ最高の演技」なることを書いたのであるが、(技術的にも表現力、音楽、衣装、などなど、特に本人の気合においての渾身の演技にてそうなのでもある)、しかし、2020年でも未だに38歳の若さとは!また、2003年から実に数え切れないほどの挫折(スケーターとしてもまた私的人生においても)や苦しみに見舞われつつも、常に「進化」し続けているので、全く目が離せない凄いお方であられるといつも新しい発見がある。かつてロンドン、パリ、東京を中心として世界中で観ていたバレエダンサー(2015年50歳にて引退)シルヴィー・ギエムも素晴らしいバレエダンサーであったけれど、もう彼女の踊りは観ることができない。スイスの田舎でひっそりと暮らしているのである。

でも常に私自身において(得にシルヴィーが1965年生まれで私と同年齢ということもあり)インスピレーションと、エネルギーと、自分も頑張ろうという想いを奮い立たせてくれたぐらいの凄いダンサー(パリオペラ座バレエ団で19歳という最も若い年齢にて最高レベルのエトワールに任命されるも「自由を求めて」ロンドンに移住し、ロイヤルバレエでほとんどの時間を過ごしてきた)。私のロンドン在住時と彼女の最盛期とが一致するので、実に頻繁に舞台を観たし、彼女も常に「進化している」感じであって、既存の価値観やあらゆるものから「自由」になり創作活動や、同時に演技を行っていた。凄まじいトレーニングもストイックぶりも半端ではなかった。東京でお会いしたこともあるが、その時もホテル内で、マッサージを受け、練習につぐ練習。でも顧問弁護士はいたものの、いわゆるどこのバレエ団にも属さないフリーランスで、彼女自身が全てのスケジュールや創作アイデアを管理していたというエージェントもいないという孤高の人でもあった。

(上記は、テクニック的にも最も難しいバレエ作品の一つ、グランパクラシックをパリオペラ座時代に踊るギエム)
それ故にかもしれないが、彼女のキャリアの最終的な段階では、かなりクラシック的芸術から離れてしまい、なんとなくモダンな演出で現状維持だったかもと残念にも思ったりする。同時に環境活動団体、シー・シェパードの政治的活動を始めたこともあり、それが十分にギエムの本来の可能性と能力の開花を最終段階にてレベルを落としてしまったかもしれないとも思う。ギエムのパートナーだったファッションカメラマン、ギレ・タピスの影響もあったと感じるし、同時にクラシック的あるいは芸術的観点から言えば例えモダンバレエであろうと、なんだか私においては「ギエム、ちょっと外れすぎでは?」と思う気持ちもあったりした。その例として、同じグランパクラシックでも、英国ロイヤルバレエのプリンシパルダンサー、ジョナサン・コープと組んで、あえて衣装(チュチュ)や髪型まで「ギエム風」にして踊ったグランパクラシック全編をご覧いただきたい。以下にリンクします。

これはこれで凄いのですが、やはり19歳にしてパリオペラ座時代の方が、年齢とかを超えて、やはり「グランパクラシック」らしいエレガンスとパリオペラ座バレエ団独自のスタイルがあると思う。

確かに変わっていくこと、進化していくこともとても重要であるが、ギエムの場合は引退前は歌舞伎にヒントを得たと思われる「ONNNAGATA」(いわゆる女形ーおやまの意味)なる小品を刀を振る動作とか舞踊と共に振付して踊っていたりして、観ていた私も複雑なる気持ちになった。

さて、エフゲニー・プルシェンコにおいては、どうだろうか?実は、彼自身、私がフレデリック・ショパンが常に作曲の当初から、継続して手を入れて改善し続ける(他の作曲家以上にショパンには顕著)ような凄さをプルシェンコには感じるのである。

プルシェンコファンなる私においても、「ちょっとこの作品は...」と動画などで観ても、好きでないと思うものや全体の作品というか演技は素晴らしくても「ここの振付けはこういう感じの方がいいのに」などと不遜にも思ってしまうこともある。しかし、確実に、エフゲニー・プルシェンコにおいては、実にあれだけの怪我を抱えつつも短期間にそれを修正どころか、大幅に「改善」してくるから、目が離せない。

これは背景として、ソ連が崩壊した頃に、またその後も多くのフィギュアスケーターや芸術家などがソ連やロシアから米国などの外国へと「亡命」か「移住」してしまい、結果的に今フィギュアスケート界で活躍しているのは「非亡命組」あるいは「非移住組」にあるという点も興味深い。ギエムは亡命ではないけれど、「フランスの国宝を英国にとられた」と当時1989年のフランス文化相ジャック・ラングが国会で弁明したごとく、「英国移住」が結果的にマイナスになった面もプラスになった面も両方あれども、実に「もう一つのギエムの人生ーもしあのままパリオペラ座バレエ団にいたら?」という意識を私自身は拭えない感がある。

エフゲニー・プルシェンコは1982年生まれ。ソ連の崩壊が1991年であり、その頃からのインフレ率(年率2000%の時もあった)、様々な状況の変化の中で、1998年には世界選手権で3位になるも、未だ名匠コーチ、ミーシンにおいてもプルシェンコを、かつてのウクライナのヴィクトール・ペトレンコみたいなドンキホテーテの2枚目的イメージか、はたまたバラライカ風、シベリアスタイルみたいな「ロシア民芸風」にしようか迷っていた感がある。

同時に、2006年イタリアトリノ五輪の男子シングルの金メダルを得たプルシェンコにおいて、海外への「移住」という選択肢、誘惑、誘い、オファーなどいくらでもあったと思うが、あえて、エフゲニー・プルシェンコはロシアに留まる決意をしている。それが、ギエムとプルシェンコのためのコーチ含めサポート体制において、興味深い対象例だと私などは思ってしまう。

例えば、私もオペラにて鑑賞したこともあり、1993年にインタビューしたこともある(世界の中で最もインタビュー嫌いのオペラ歌手でもある)ルチアーノ・パヴァロッティ。彼の名作にては、私はオペラより、オペラのテノール歌手エンリコ・カルーソの臨終の際の想いを歌にした「Caruso」などの歌の方が、パヴァロッティの気迫もメランコリーも感じられて、頻繁に聴いてしまう。内容はパバロッティ同様、イタリアのテノール歌手であったエンリコ・カルーソ(主に米国で成功している)がイタリアにて臨終の際に「米国に行きたし」なる念と過去回帰みたいな哀愁漂う歌である。パヴァロッティのこの版が最も素晴らしいと思うので、是非、(フィギュアスケートの背景音楽としてではなく)単独にてまずお聴きいただきたい。

次にご紹介したいのは、あまりにもパバロッティのCarusoが素晴らしい一方で、2006年のプルシェンコのイタリア・トリノ五輪の金メダルエキシビジョン演技で、プルシェンコも気合が入っている「Caruso」(パヴァロッティ版の音楽使用)の以下の演技。あまりにもパヴァロッティの音楽と歌にあのプルシェンコでさえも、「敗けている」感があり過ぎて、この動画を観るたびに、すぐに観るのをやめて、パヴァロッティ様のカルーソへと「転換」していたプルシェンコファンの私である。以下の演技が2006年トリノ五輪金メダルの際のプルシェンコのエキシビジョン。

こちらが、エンリコ・カルーソも、ルチアーノ・パヴァロッティもイタリア人テノール歌手であるイタリアトリノ五輪の「Caruso」のプルシェンコ。気合は充分なのであるが、振付けも技術的にもかなり満足感が、私にては感じられず、ついこの動画から、パバロッティの「Caruso」を聴きたくなるだけで、その後、エフゲニー・プルシェンコの「Caruso」には一切関心を無くした私。

私が素晴らしいフィギュアスケート解説者であると信頼してきたあのNHK解説者、元フィギュアスケーターの五十嵐様におかれても、アナウンサーが「プルシェンコ凄い!」と発言したのに対して「うーん、まあ、ただ滑っているだけなんですけれどもね」と、あの五十嵐節(彼は常に冷静であられて選手を褒めることはあってもけなすことはないお方。五十嵐様におかれてのこの解説が多くを物語っているとも思う私である)。

しかし!プルシェンコの凄さ。上記のパバロッティの曲の重さとオペラ歌手故の延々と声を出し続けるオペラ歌手特有の歌い方を見限り、新たに、2011年。これは私的には同じくイタリアのオペラ歌手でもアンドレア・ボッチェリ版?とも思うものの、おそらく違うイタリア歌手による「Caruso」と音楽もスパニッシュギターの演奏を主とした、「軽さとけれんみと切なさ」を一層出した版の音楽と共に、振付も全て変えて、「進化」とか「改善」というより全く新しい衣装も含めて、がらりと内容を変えてイタリアで2011年に滑っていた動画を見つけて、改めてプルシェンコの凄さを実感し感動してしまった。これはとても素晴らしい振付、演技、衣装、そして特に音楽を編曲どころか一から作り直した故の調和であり、プルシェンコも音楽に敗けておらず、見事に調和している。前述のプルシェンコ、2006年トリノ五輪エキシビジョンに不満足の方々も是非期待してご覧いただきたい。

そもそも私においてフィギュアスケートの競技会もアイスショーも様々観てきているが(念の為に申しますが、私において、多くのメディア界の方々が当然の如く、招待枠チケットにて無料で、かつ仕事に関係なくそういう「不当利得」を受けている方々が多いと批判的に思うので、フィギュアスケートのみならず、取材対象のクラシック音楽コンサートであっても全て自費で経費でもなく支払う主義)、アイスショーというと適当に難しいジャンプも入れず、振付も楽で、「ただ滑っているだけ」なる元選手なる方々が実におおく、退屈することしきりなのですが、エフゲニー・プルシェンコ様におかれてのこのプログラム。アイスショーで、ここまで凄い難易度の高く、芸術的なる、また振付も実に細かく、エッジワークも大変なるものを作り、かつ滑るというのは、もうアイスショーはお金になるからなどという目的で滑っておられるのではないと、はっきり分かる、私においては。



この演技はアイスショーでのもので、本当はイタリアでの演技がベストだと(同じ2011年、まさに2010年のバンクーバー五輪で4回転ジャンプに成功したがらも3回転しか跳ばなかった米国のライサチェックに敗けて銀メダルに終わった翌年のシーズンである)思うも、貼り付けが出来ず、こちらのストックホルムでの演技も確認したところなかなかいいのでリンクします。やはりイタリアのアイスショー(2011年)の方が、イタリアという場所故の緊張感と気合がプルシェンコ様においてもあるのか、断然いいのですが、貼り付けが出来ません。カメラワーク(本当にフィギュアスケートのそれぞれ個人ごとに違うスピード感は実際に現場で観ないと分かりません)も上手くプルシェンコ自身の気合と出来が断然イタリア版の方がいい(変なアナウンスとか入っていないですし)ので、You TubeにてPlushenko - Caruso (Gran Gala del Ghiaccio 2011 ) のタイトルの動画をお探しいただき(チェンネルではSunnyBoyBornInTheSunなるタイトルの方の動画です)ご覧いただきたい。

おそらくあのパヴァロッティ様も今頃、天国にて、同じイタリアモデナ(パヴァロッティと同郷)ご出身のソプラノ歌手で昨年亡くなられたミレッラ・フレーニ様に慰められながらも地団駄踏んでいるに違いないと、失礼ながら思ったりする私、工藤雪枝でもあったりする(苦笑)。


2006年のトリノ五輪にて金メダルをとった後、引退していた時のプルシェンコのアイスショー。しかし、プルシェンコ、2008年にまた現役復活しているから凄まじいとも思う。でもトリノ五輪の際にはハンガリー出身のバイオリニスト、エドウィン・マートンと組んで、「タンゴ・アモーレ」とかのプログラムを作っていたが、やはり重すぎる感じを私においては感じていた。その後、この2011年までにこの記事に埋め込んんだわが記事「プルシェンコ皇帝誕生」にも言及しているサンクト・ペテルブルクのマリインスキー劇場のキリル・シモノフなども「エフゲニーチーム」に入った頃でもある。離婚していたプルシェンコはやり手のビジネスウーマン、かつ音楽の世界にも詳しい女性と再婚し、まあ、詳しいことはロシアという国柄わからないことも多いけれど、常に限界に挑戦しつつ、高みを極めてくるこの姿勢には、もう私など感動という想いしかない。

故に、プルシェンコの如何なるプログラムも、「これは今一つでは?」とかあまり好きでないと思ったとしても、こういう形で常に「再生」してくるのでいやはやファンたる私において、忙し過ぎて目が離せない。

これだけの人生のアチーブメントにおいて、未だプル様御年38歳とは凄い。しかも!平昌五輪でアリーナ・ザギトワを金メダリストにしただけでなく、2022年の北京五輪においては、必ずメダルは確実だろうという4回転ジャンプを跳びまくるロシアの通称「三人娘」(ザギトワは入っていない)がサギトワと共に所属していたロシア国営のスポーツ施設、サンボを離れて、その三人娘の二人たるツルソワとコストラナイヤが2020年夏にサンボを蹴ってプルシェンコの門下生となり、いよいよ、アイスショーのプルシェンコもコーチ業に本格参入という新たなる展開も今年にはあった。

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こちらはロシア女子フィギュアスケート界で今はトップを走っている感のある、アリョーナ・コストラナイヤ、そして元マリインスキーバレエ団のバレエダンサーで今は振付師のキリル・シモノフ、そしてコーチとしての大きな展開をえた今年のプルシェンコの三人の写真である。

昨今、なかなか情報が出てこないプーチン大統領であるけれど、プーチン大統領も、サンクト・ペテルブルクにて、エフゲニー・プルシェンコ同様に、貧しい共同住宅なるKomunalkaに住んでいた存在でもある。

スポーツや芸術、あるいはソフトコンテンツにおいて、時には外交力、あるいは国際政治力、さらには防衛や国防への影響さえあるのが文化でもあり、芸術やスポーツでもある。先だって、プルシェンコの生まれたハバロフスクの知事を神経剤、ノビチョクにて毒殺しようとした疑いがもたれ、現在、英国、ドイツ、フランスがプーチン大統領に司法的追求や制裁を求めているという状況下のロシア。一時は同じミーシンコーチの元で最大のライバルであったアレクセイ・ヤグディンは米国に移住し、すっかり影を潜めている。一方ロシアに残ったプルシェンコの今後の人生は、38歳というまだまだ若き年齢を鑑みるにどう展開していくのか?ファンというレベルを超えて興味がつきないと思う。

プルシェンコにおいて、イタリアでアイスショーを頻繁に行ってもいる。これは私の推測も入るけれど、今でもザギトワにおいてもそうなのであえて言及すれば、ソ連時代からのシステム、ゴスコンツェルト(国営マネージメント)がロシアでは今でも幅をきかせていて、故にゴスコンツェルトが力を持っていた旧共産圏、そしてイタリアにてのアイスショーが多いのか?とかプルシェンコ(一時は政治家にもなっていた)の「軸足」と「エッジ」はどこにあるのか...などとあらぬ想像をしてしまう。

ザギトワが一時引退なのか、活動停止なのかという発言を2020年夏にロシア国営テレビで行ったけれど、彼女のアイスショーでの海外での収入の4割が国(ロシア)にとられるようなシステムが今でもあるロシア。ソ連時代には、如何なるアーティストやスポーツ選手にても外国での収入の9割ぐらいが、国側(ソ連)の「取り分」となっていた。そういう「アイスショー」(特に日本)での活躍が功を奏したのか、今では燃え尽き症候群と体型変化のために到底北京五輪でも世界選手権でもメダルは無理というアリーナ・ザギトワがロシアの「五輪強化選手」に不自然に選ばれたことが、ツルソワ、コストロナイヤらがロシア国営サンボからプルシェンコ門下生へと鞍替えする大きな理由となった。プルシェンコというシェンコで終わる名前は本来ウクライナ出身。まさにプルシェンコのお父上はウクライナからシベリアに移植してきた大工たる労働者であった。いやはや、今後のロシア、そしてフィギュアスケート界から、ますます目が離せないと感じる。エフゲニー・プルシェンコの「皇帝誕生」から17年経っての「新生プルシェンコ」を予感するような2020年11月3日の誕生日。まさにかつての明治時代の明治天皇のお誕生日たる「天長節」でもある。

追加ー...以下の動画はエフゲニー・プルシェンコの言葉。おそらくトリノ五輪直後の頃だと思います。プルシェンコは「自分は才能を与えられた」と語っていますが、彼の人生の動画をロシア語英語で知っている私において、「才能」というより、ただ凄まじい努力と精神力としか思えません...


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