「厳しさ」は美徳ではない

学童保育で仕事をしていた時に気づいたことがある。

「厳しさ」を誇りにする保護者が異常なほど多いということだ。

はたして「厳しい」というのは誇りに思うべきことなのか?「躾をする」ということと、「厳しくする」ということは同じことではないと思うのは私だけだろうか?

例えば私の働いていたインターナショナルスクールでは、「子供に怒鳴ってはいけない」という決まりがあった。高学年の小学生は、うまく説得すれば怒鳴らなくても、怒らなくても、「なぜこれはいけないことなのか」を理解させることはできる。ただ小学生低学年や、幼稚園児になるとそこまで理解力も思考力も、説得で解決するにはまだ未熟すぎる場合が多い。

インターナショナルスクールの幼稚園で働いていた時、泣きわめく子供に「どうしたの?」と聞いても、子供自身も説明できない場合が多かった。「なんとなく嫌だった」「なんとなくムカついたから仲間外れにした」といった感じで、明確に何を思ったのかをこの時点で説明できる子供はほとんどいなかった。

じゃあそんな子供たちにしつけをする時、どうすればいいのか?怒鳴り散らして恐怖心を与え、親の圧力で「やっていいこと」「やってはいけないこと」を識別させるのが正解なのか?「これをやるとお母さん/お父さんに怒られる」。「どうしてダメなのか」、ではなくて、「怒られるからやらない」という理解のさせ方は果たして子供の成長にとってプラスになるだろうか?私はそうは思わない。

大人の目線で子供に説明したところで、絶対にわかるわけがない。そうではなくて、人が嫌がることをして、相手がどんな気持ちになるかに重点を当てる。「悲しい」「嬉しい」「楽しい」「嫌な気持ち」この4つで説明すれば、子供はわりと理解しやすいということが仕事を通してわかった。

幼稚園児の間で一番頻繁に起こった小競り合いが「おもちゃの取り合い」だった。少人数制の幼稚園だったが、「私が使ってたおもちゃをあの子がとった」は1日に必ず5回は聞いていた。きちんと相手におもちゃを使っていいか聞くこと。まだ遊んでいると言われたら我慢する。いつまでたっても返してもらえなかったらあと何分で交代するか決める。それでも返してもらえなかったら先生にいいなさい。を前提とする。

それでもうまくいかない場合は、お互いにお互いの気持ちをわからせる。「あーあ、かわいそう。〇〇ちゃん、このおもちゃで遊びたいって、今日すごく楽しみにして学校に来たのにな。あなたがずっと交代してあげないから、〇〇ちゃんはすごく悲しがってる。先生も残念だな。〇〇ちゃんかわいそう。」

相当子供がひねくれてなければ、これは結構うまくいく。小さい子供は、まだまだピュアだから。感情操作といえばそうなのかもしれないけど、他人に対する思いやりを育むには、個人的にこの方法が恐怖心を与えるよりもベターだと思う。

正直子供のこういったやりとりをサポートすることも仕事の一貫だった私は、仕事に行く途中も仕事の間も、寝る前も休みの日も、もっといい方法がないかとずっと考え続けていた。少し逸れるが完全に社畜だったなあと今になって思う。

でも、一日中別の仕事をして帰宅した親には、こういったことについて考える余裕はあるだろうか?今日は上司に叱られたかもしれない。同僚に嫌がらせを受けたかもしれない。思ったより実績をあげられなかったかもしれない。このストレス社会の中で、子供の教育方法を四六時中考える余裕なんてきっとない。

だから多くの両親、特に共働きの家庭では子供に制限をかけることでしつけをする場合が多い。

例えば、「ゲームは1日に1時間だけ」「5時には家に帰ってこなければならない」「ご飯を全部食べ終わらないとおやつはあげない」など、子供が小さい時に制限をかけるのは別に悪いことだとは思わないし、限られた時間の中で少しでも子育てを楽にするのに、制限をかけるというのは仕方のないことだと思う。ただ、一番子育てをする大人に多く見られるのが、「厳しさ」に対して美徳意識を持ってしまうということだ。

どうやら保護者の間では「厳しいおうち」=「ちゃんとしているおうち」という暗黙の了解があるようだ。

では子供に対して非常に厳しい家の子供は、他の子供よりも成長が早かったかと言われると、私の経験からすると決してそうではない。子供と関わる仕事をしている人たちは特に理解できるだろう。

確かにご飯を食べる時のマナーだったり、先生に対する話し方、気配りなどは他の子供よりもダントツにできる。でも、自分の意見を言わなければいけない時、例えば他の生徒との喧嘩や、自分が嫌な気持ちをした時、彼らの表現力は非常に乏しい。きっと家では「親のいうことが絶対」で、あまり自分の意見を言って聞いてもらう機会がないのではないだろうか。

確かに、大人になるにつれて周りの空気を読むことは大切だ。だが、子供には自分の思うがままに、自由に自己表現をする機会、つまり自尊心をまず先に成長させるべきだというのが個人的な意見だ。

なぜなら周りの空気を読む、周りの顔色を伺って自分を犠牲にすることを先に学んでしまうと、自己表現しなければいけない場面でどうしても牽制がかかってしまってアウトプットする欲求が満たされないと思うからだ。

では、厳しさを美徳とする親は、子供がのびのびと成長するよりも、主従関係を築き言うことをなんでも聞かせるほうが良いと思っているのだろうか?個人的に、これは良い悪いではなく、簡単であるか難しいかであると思う。そりゃ、子供がなんでも言うことを聞くように育てれば、親としては楽だし、別に時間を割いていちいち子供に説明する手間も省かれる。

でもこれって親の責任の放棄なのではないかと思う。

厳しさにもいろんな種類があると思う。でも、個人的に親に従順させる厳しさを今までに一番見てきたと思う。根拠のない制限を子供に与えて、「Discipline」を教育するという教育概念である。そして、これを崇拝する保護者たちであればあるほど、自分の教育方針に異常なほどの誇りを持っている場合が多い。

こういった親の子供は幼い頃からストレスを溜めすぎている為、病気がちになったり、友達とうまくコミュニケーションが取れなかったり、他の子に八つ当たりをしてしまったり、ネガティブな形で自己表現するケースが多いように思った。


私は学童保育で働いていた時、いろんな生徒に色々な才能があることを知った。絵がとても得意な子、理数系が強い子、車のことをなんでも知ってる子。そんななかで、自己表現がうまくできる子は自分の特技をなんでも話してくれるし、彼らの両親はだいたいその特技を理解してサポートしていた。

でもそうでない家の子供は、自分の特技を主張することに対してギルティーな感じで、あまり前に出ようとはしなかった。

「子供に制限をかけること」は決して美徳意識と関連づけてはならないということだ。「厳しさ」よりも「どれだけ子供を理解できているか」「どれだけ子供が親の言うことを理解できているか」という所に焦点を置かなければならないと思う。

適度な厳しさ、過度な厳しさ、適度な制限と過度な制限の線引きは難しい所だが、子供がストレスを溜めはじめた瞬間がもうすでに適切ではないと判断しなければならないんだろう。

自分が子供に自由を与えていないということの物差しは、子供が自分の意見、特に親に対して批判的な意見であっても、きっちり伝えることができるかできないかだと思う。

子供にある程度の自由を与えて健康的な親子関係を築くことに価値を見出す親がもっと増えることを願って、今回はこのトピックについて書くことにした。

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