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【保育の場から】遊びに教育をどこまで入れる?

保育士として初めて保育園に勤務したときの話。
そこでは、モンテッソーリ教育のメソッドを導入していました。

モンテッソーリ教育には「お仕事」と呼ばれるさまざまな活動があり、それを通じて生活のなかで必要なスキルや物事の考え方を学びます。
さらに、小さな「できた」という達成感の積み重ねから培われる自己肯定感は、自分の力で試したり考えたり粘り強く関わる力を伸ばすとされています。
(ちゃんとした詳しい話はぜひお調べください)

正式なモンテッソーリの幼稚園ではないので、よく聞くと導入の仕方や考え方がまた少し異なっている部分もあったみたい。

保育園では、保育の計画というものを立てます。
年間、月間、そして週ごと、さらに一日のプログラムの計画がある。
そこでは、日案までかなり細かく立てることが求められました。
モンテッソーリ教育に則った活動と、それに参加しない子たちの活動も細かく用意する。

園長がよく話していました。
「計画には教育的に意味のある活動を入れるのです。なんとなく体験させるだけでは意味がない。それは託児所と一緒です」

保育士としての勤務が初めてで、先輩方もアップアップであまり頼れない。
そういうもんなのか…そうなのか?と思いながら、私もアップアップになって1歳クラスの計画を担当していました。
(ちなみに保育士一年目の話)

その経験から、仕事で子どもと関わるからには意味のある活動を提供できなきゃ保育士失格、くらいの強迫観念が植え付けられました。

この遊びをすると将来お箸を持つときの手の動きが養われる。
この遊びでは、物の大小という概念が。
これは足腰の力が。
これはバランス力が。
などなどなど。

小児科病棟で働いていたときも、しばらくこの強迫観念が私にのし掛かってきました。
入院中だからそんなこといいはずなのに、ゆったり遊んでいると看護師さんたちが「意味のない時間を過ごしてる」と思うんじゃないかとドキッとするのです。

それがやわらいできたのは、おもちゃや遊びについて学んだときでした。
「遊びはただ楽しく遊べばいいんだ」と言っている人がいました。
遊びに教育的な意味を持たせすぎなくていいじゃないか、と言うのです。
ちょっと気持ちが楽になりました。

そして。先日の記事にも書きましたが。
大人がお膳立てしすぎなくてもいいんじゃないかと思えるようになりました。
なにして遊ぼうかな、と、自分で考える。
一見意味がなさそうに感じられる行動でも、子どもにとっては壮大な実験なのかもしれない。
物を床に打ちつけるときの、手の振動の違いを感じているかもしれない。

モンテッソーリ教育に触れて、素敵だなと感じる部分もたくさんありました。
生活に必要な手の動きやスキルが楽しく練習できるなら、それもいいな、とも思います。
でもやっぱりバランスなんじゃないかな、と。
それが現在の私のなかで落ち着いた地点です。

小児科病棟にいたとき、表情がなかったり泣き続けていた子どもたちが、遊びによって笑顔や気力を取り戻していく姿をたくさん見ました。
楽しく遊ぶ、それだけのことがどんなにパワーを持っていることか。
子どもたちは遊びのなかから自然とさまざまなことを学び取っていると実感します。

もちろん、保育士はプロなので計画は大切。
さらに遊びのバリエーションを増やしておくのも仕事として大切。(自分に言ってる)
だけど余白の部分が持つ意味も、実は大きなものなんじゃないのかなぁと思うのです。

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