思考停止は当たり前。

こんにちは、
本日も「魂の叫び」のお時間がやってまいりました
(※毎週水曜日更新)

このnoteは未来の自分にあてて
今の自分の思いを書き綴るというものです
(note内の「お前」は未来の自分を指します)

第十六回のタイトルは
『思考停止は当たり前。』
です。

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思考停止は当たり前。

これはどういう意味か。
思考停止することが"当然である"
ということではない。

むしろ
思考停止が当たり前になってはいけない
と言いたい。

自分で考えなくなれば、
いずれ何も考えることができなくなり
脳が老いていく一方だからだ。

それでは今回のタイトルは
どういう意味なのか。

それは、
"当然である"と思っていることこそ、
思考が停止している
ということだ。


当たり前とは何か。

言葉自体には
「誰が考えてもそうであるべきこと。」
という意味がある。

つまり、
その結果がほとんどの場合で
決まっていること
である。

言い換えれば
"考えるまでもない"
ということだ。

人は結果が目に見えてるようなことに対して
当たり前だと思うようになる。
そしていずれ考えなくなり、
それを基準に行動したり、思考したりする。

しかしここで問いたいことは、
果たしてそれは当たり前なのだろうか
それを当たり前にして良いのだろうか
ということだ。


手段の前提には目的がある。

つまり、
目的を果たすために手段を用いるわけだが、
初めてのことにおいては誰もが手段を選択する。

そして
その目的に際して最善の手段はどれだろうか、
と考えるということだ。

この時点で当たり前は存在しない。
前例がないことに加え、
各手段の結果を知らないからだ。

しかしこの場面に再び遭遇したならば
最初に選んだ選択の結果を参考にするだろう。
二回目は違う選択をするかもしれないが、
これが何度も続けば最終的に選択肢は絞られてくる

そうして当たり前が形成されていくのである。


もちろんその中で形成されていった当たり前は
何度も経験を重ねていることであるため、
たしかに考えるまでもなく
結果が分かることなのかもしれない。

だが同じ状況が
何度も訪れることはあるのだろうか。

どのような物事でも
どこかしらに違いを持っており、
似てはいても違うことが多い。

すると当たり前が最善ではないこともある。

それに加えて、
自分の中では当たり前でも
世界では当たり前じゃないかもしれない。
隣の町では自分の当たり前が
悪手とされている
かもしれない。

そのように考えると
当たり前と思っていることが
本当はどうなのか、
気になってくるのではないだろうか。


そうは言っても
当たり前だと思うことに気づかないことも多い。
当たり前は気づかぬうちに形成されるものだからだ。

その中で自分の行動を思い返してほしい。
当たり前を探す必要はない。
自分の行動が持つ意味を考えることだ。

例えば
通学はなぜこの道を通るのか。
本当に近道なのか、
他の道に時間以外の価値があったりしないか、
見過ごしていた魅力はないか、
などのように考えようはいくらでもある。

今の時点では最善かもしれないけど、
明日にはそれよりもよい手段があるかもしれない。
気づかないところで便利な手段が開発されているかもしれない。

とにかく
当たり前に考え、思考を停止させていると
いつのまにか損をしている可能性がある。

損得勘定で語るものではないかもしれないし、
考えることをやめても死ぬことはない。

ただ一つ言えることは
当たり前を見返すことで思考停止は防げる
ということだろう。


〇〇だなんて当たり前じゃん!
〇〇とか言うまでもないよね!

1度考え直してほしい。

それは本当に当たり前なのだろうか
言うまでもないことなのだろうか

当たり前は自分勝手な決めつけである。
「お前はそうでも他は違う。」
何度言われただろう。

当たり前は単に思考が停止しているだけだ。
新しいものを発見するためにも
当たり前を考え直そう

「思考停止は当たり前。」

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