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「諦める」とは明らかにすること。

ここ数日諦めることを続けてます。

noteの記事ネタから始まり(優先順位がオカシイ)、仕事の記事作成に、書類作成に・・・。出来ない自分に諦めてます。

こんなにPC作業するのは近年なかったこと。
だから頭の中も、身体のメンテナンスも、心の余裕さえも「今」についていけていません。

ついていけないのは、慣れないだけではありません。
能力・技術諸々が伴っていなくて、それらが足を引っ張るのです。
焦る気持ちだけが「今」よりも0.5秒早く飛び出している感じでしょうかね。

若かりし頃は、これに立ち向かうべく日々奮闘してました。
自分の範疇を超えて手の届かないところまで手を伸ばそうともがいていました。当時は頑張ることは、こういう事だと思っていましたから。

だけれども、年を重ねる毎にそれは自分を苦しめることだと気がつき、少しずつ頑張ることの意味を修正してきました。

そうしてようやくたどり着いたのが「諦める」です。

皆さん、諦めるの語源って知ってますか?

「諦める」という言葉は、現在では、「自分の願望が叶わず仕方がないと断念する」というネガティブな意味で使われています。この言葉の語源は「明らむ」、つまり、「つまびらかにする、明らかにする」ことだと考えられています。また、「諦」は仏教で「真理、道理」の意味があるそうです。

「諦める」ために研究する【重松 恵梨】 |
広島大学https://www.hiroshima-u.ac.jp › izanai_shigematsu_eri より抜粋

仏教とか言い出すとかなり難しくなるので、そこは軽くスルーさせてもらって(笑)
この「諦める」の語源を知ったときまさに目から鱗でした。

「つまびらかにする、明らかにする」とは、私の場合は、今の身体の状態やや対応できる能力、おかれた環境などをつまびらかに明らかにして、きちんと状況を精査するのです。己の限界、立ち位置を知るのです。
そして、これは無理だなとか、今は出来ないと評価したら、潔く手を離してしまいます。
それは仕事をしないとか、責任逃れをすることとは違います。例えば、物理的なことだと、人に頼るとか、相談するとか、協力をお願いするとかです。

では、自分の範疇を超えた人間の力が及ばない、どうしようもないことは、どのように諦められるでしょうか?それは神に委ねるという方法で可能です。何とかしようと思うことのおこがましさが時に仇となることもあります。
委ねた時ギフトがやってきます。
ふとしたときに、アイディアや解決策が降りてくるというギフトです。

状況を精査して、上手に諦め手放して、神に委ね、今できることを精一杯していくことが、人生という川の流れに乗るということなのでしょう。

とりあえず忙しすぎて少々さぼってたヨガから修正していきましょう。
そして何とかなる!と神に委ねましょう。

講釈を垂れました。
最後までお読みいただきありがとうございました。







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