【書評】夏目漱石「吾輩は猫である」

「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」

かく有名な一文により幕が開ける夏目漱石の処女作「吾輩は猫である」。

冒頭から痛快な批評の嵐である。確かに、猫の観点からしてみれば、人間は奇妙にも傲慢にも、野蛮にも見えるだろう。そうした人間の性質と言うものを、この小説の主人公である名もなき猫は的確に捉えている。

しかして、その人間への分析が猫と言う主観に基づくものではなくて、人間の私が読んでも、つい、ニヤリとしてしまうほど的を得ているのだから、この小説はすごい。実は、人間がこうしたことを達観して述べてしまってはいけないのだ。それでは高踏派と称される夏目漱石が私たち、人間を小馬鹿にしているのと同じである。夏目漱石自身が感じたことであれ何か強烈な自我をもつものにそのイメージを移し、吐露させる。こうすることで読者に苦味を残さない毒を味あわさせ、その一瞬に中毒性をもたせた。

では、なぜ、夏目漱石は「猫」に自らの思いを吐露させたのであろうか。また、その猫に、名前が無いのはなぜなのだろうか。

漱石が猫を選んだのは賢明な判断であったというのがこの小説を一読した私の所感である。多くの人が猫というものに高飛車、お高くとまっているというイメージを持っているはずである。決して人間に媚を売らない姿、あの冷たい表情に、人特有の「優位性」というものが適用なされているのか。猫は飼われるものではなく、むしろ人間を手玉にとっているということがよく言われる。まさに、これらのことから、夏目漱石が猫を主人公に置いた意味というものは、十分に感じ取れる。

つまり、猫の、あの表情や立ち振る舞いに人間にも負けず劣らない聡明さや麗しさを感じ、さらにペットとして人間の身近にいることから利己的でナルシシズムに溺れる人間を冷静に分析しているのではないかと考えたからであろう。

猫の頭の中身は、当然、夏目漱石である。しかし、私たちが猫に抱くイメージを上手く活用することによって、文章及び批評の中に何か愛らしいものがあるように感じさせている。

それでは、主人公の猫に名前が無いのはなぜであろうか。

そもそも、その猫自身がそれを全く気にしていないということも甚だ不思議なことである。別にアイデンティティが無いわけでもない。

しかし、思えば、私たちが考える猫の名前なんてものは所詮、私たちがその猫をどう呼ぶかということにしか過ぎない。哲学的なことを言ってしまえば彼らを「ねこ」と分類していること自体、彼らに許可を得たわけでもなんでもなく、人間のエゴでしかない。彼らにとって名前とは人間に一方的に与えられる「タグ」でしかなく、自由気ままに生きる猫にとって名前とは存外、必要の無いものなのかもしれない。そうしたことを踏まえれば、主人公の猫に名前が無くとも、またそれを彼が気にしていなくても、小説の筋書きにはさして影響が無いのかも知れない。

話の内容にも少し付言しておく。話題としては、頑固な変人、苦沙味先生を中心におきる、出来事を猫が客観的に描写、あるいは、皮肉をチクリと刺すというもので、話題がわき道にそれながら、のろのろと進んでいく。苦沙味先生以外にも多くの友人・変人が登場し会話を中心とする場面も多い。

終盤までそうしたペースで進むのであるが、そこから最後にかけて、登場人物の口を借りて私たちに放たれる、夏目漱石の人間論は次第に急速な熱を帯びていく。この小説の重要なメッセージがここの場面に集約されているとまでいうのは誇大した言葉になってしまうが、夏目漱石自身が今まで生きてきた中で感じたこと、思ったこと、それらは確実に込められている。批判的にみれば、この場面だけ、やけに熱量があり、読者は変な肩透かしを食らったように感じ、また、猫も滅多に口を挟まないので、締めくくりの猫の死があっけないものに感じてしまうということがある。最後の場面は独立した文章として捉えれば、大変に面白い文章ではある。夏目漱石が筆を急いでしまったということか。

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