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「お菓子な絵本」34.風の唄が聞こえる

34. 風の唄が聞こえる



 以下は〈音楽新報〉誌に掲載されるべく、ウィーン楽友協会におけるアルヴィン・シュヴァルツのリサイタル当夜に書かれた批評記事よりの抜粋である。

 深夜のめずらしい星として、我々が既に何度か語ってきたこの人物について、どうして書かずにいられよう! 今宵、この劇場に居合わせたことを、わたしはことのほか幸運に思う。何故なら、音楽がこれほどまでに美しいものとは、これまでまったく知らなかったのだから。
     ── 中 略 ──
……シュヴァルツは優しかった。ファンタジーの世界に魅了され、酔いしれ、あらゆる色合いの、この世の夢を心に描いた聴衆の感動を、そっと包み込んでくれた。アンコールで彼が選んだ曲は、〈ミニヨン〉だった。シューマンの《子どものためのアルバム》よりの、宝石のようなこの小品は、まことに、この夜にふさわしい選択だったといえよう。

 シュヴァルツはバッハの為にバッハを。
 ハイドンの為にハイドンを。
 シューマンの為にシューマンを弾いた。
 そしてアンコールの〈ミニヨン〉こそは、我々の為に。

 しかし、これらは始まりにすぎなかった。

 この後に起きた出来事を我々は生涯忘れることができないであろう。そう、決して。

 殆どの聴衆は、その音が確かに聞こえたと主張している。アルヴィン・シュヴァルツが2度目のアンコールに応えて自作の変奏曲を弾き始めると、どこからか、音にならない音、もしくは声にならない声が聞こえたと。
 もの哀しく、憧れに満ちた、ロマンティックなシュヴァルツのメロディーに美しく重なるオブリガートのように、ひとつの静かな音が聞こえたと。
 多くの者は、自体が楽器であり音楽であるともいわれるこの会場、ブラームス・ザールが共鳴したのだと言った。あるいは楽友協会の建物全体が共鳴したとも。
 ある者は、ベーゼンドルファー自らが唄ったのだと、また、ある者は呼び覚まされた芸術家の魂が歌ったと言った。シューマンか、クララか、あるいはブラームスか? 
 ピアニスト自身が、あるいは客席の誰かが歌ったのだと語る者もいた。

 しかし、わたし自身が感じたのはこうだ。あくまでもこれは個人的な見解なのだが……。

 それは風の唄。風が、唄ったのだ。

 この街ウィーンを、ヨーロッパを、そして地球全体を取り巻く風が、シュヴァルツのメロディーに同調して。

 この夜、楽友協会の歴史に新たなる伝説がまたひとつ加えられた。

     編集長 ユリウス・クノール




── こんなこと、いつまで続くんだろう? ──

 まだ夜明け前のキッチンで、真利江は焼き上がったばかりのジンジャーマン・クッキーを網の上に並べていた。それから……、一人一人に可愛い顔を描いて、カラフルな服を着せて、それから、それから……。
 何かせずにはいられなかった。だけど、こんなにたくさんのお菓子を誰が食べてくれるというの? もし帰って来なかったら? 真秀が、帰って来なかったら? 
 大声で泣き出しそうになるのを必死にこらえていた。ひとたび泣き出してしまったら、もう一人では耐えられそうになかったから。
 息が詰まる。リビングからテラスに通じるガラス戸を開け、庭に流れる明け方のひんやりした空気を思いきり吸い込んだ。

「アルヴィン?」

 いつものように優しく髪を撫でられたような気がした。まさか。彼はまだウィーンなのに。今頃はきっと──

 真利江の眼に涙がいっぱいにあふれた。

── 聞こえる ──。

 ひとつの静かな唄が。言葉のない、美しく、哀しい唄が。風に乗って、聞こえてくる。

「アルヴィン……」

 あなた、弾いてるのね。あの子たちの為に。わたしの為に。そして、あなた自身の為に! 


 風の唄を逆手にとることを思いついたのはアルヴィンだった。風が唄う時、わたしたちは自らの意思とはお構いなしに、どこかへ連れていかれる。それは何の前触れもなく、ある日突然、容赦なくやってくる。
 だからアルヴィンは、こちらから風に唄わせることに挑戦した。それが、定められた過酷な運命を受け入れる、ただひとつの手段だった。
 風と同調することで、遠く離れた愛する者の元へと想いを贈り届ける。離れていても、心が通じ合っていれば、一緒に風の唄を聞くことができるのだと。


   ※   ※   ※


── ぼくはいったい何してるんだ? こんなところで ──。

 何かに胸の内をかきまわされているような、奮い立たされるような、言い知れぬ不思議な感覚が真秀を支配していた。強い感情、何かの想い? 誰かが励ましてくれている? 

 一瞬だが、ほんの一瞬のことだったが、歌声が聞こえたような。忘れかけていた懐かしいメロディーが。

 何かせずにはいられなかった。そうなんだ。ただ、待ってるだけではダメなんだ。残された時間は、もうあまりないはず。マドレーヌにとっても、王子にとっても。そしてぼくにとっても。

── 脱走だ。ここから出るんだ ──。

 まず、考えた。次に行動を起こした。
 真秀はソファの向きを鏡から背を向けるように置き換えた。手は自由がきかなかったので、身体でよいしょと押して動かした。きっとあの鏡の向こうから、警備隊の誰かがこちらを見張っているのだろう。わかってはいたが、気にしなかった。
 それから黒すぐりの大きな帽子がソファの背もたれに、うまい具合に乗るよう座り直し、鏡からの死角を作る。
 これで入り口のドアは鏡からは見えなくなったろう。真秀は器用に身体を下に滑らせて帽子をそっと脱いでソファには帽子だけを残し、その場に座ったままでいるように見せかけておき、身をかがめてドアまで行った。下方のちょうつがいの出っ張りに手首の縄を引っかけて、引き上げたり下げたりしながら縄を切ろうと頑張ってみた。

── 痛ってーっ! ──

 的を外したらしく、手首の内側を思いきり引っ掻いてしまった。と、縄がゆるみ始めるや、ほどなくして腕をするっと抜くことができた。ラッキー、と真秀は思った。縄が切れるまで辛抱強く続ける覚悟で、こうも簡単にほどけるとは思いもよらなかったから。
 縄結びもまともにできないのかね。ここの隊員は。ボーイ・スカウトで習ったりしないんだろうか、そもそもボーイ・スカウトなるものが、この世界にも存在してるんだろうか? などと考えながら、真秀はドアをじっくり観察した。
 脱出ルートはここしかないのだ。
 ドアノブはあるものの、鍵穴はナシ。一応押したり引いたりしてみるが、ドアは動かず内側からは開けられそうもなかった。ドア脇のわずかな隙間から外を覗くと、外側から留め金を掛けてあるようだ。何というお粗末さ。何か細い物を隙間に差し込んで留め金を持ち上げることができれば……。
 剣は盾と一緒に取り上げられてしまったし……、そうだ。マスクがあるではないか。
 真秀は黒すぐりのアイマスクを外してドアと壁の隙間から留め具の下に差し込み、慎重に上へ持ち上げた。

 カチャン。うまい具合に錠は外れた。半信半疑でノブを回す。開いた! 

 ドアを蹴っ飛ばして派手に脱走してみたい誘惑にもかられたし、ドアが外から開かなくなるよう巧妙な小細工を試みたくもなったが、遠慮してひたすら逃げることに専念した。ムダな時間はないし、破壊工作をせねばならぬほど警備隊に恨みはないものね。

 幸い廊下には誰もいなかった。

 絵本に見取り図が描かれていたので、城内の構造は大体把握していた。目指すはマドレーヌの居る塔だ。自分に何ができるかはわからなかったが、とにかく先に進むしか残された道はなかった。



「警備隊本部なんて、ちょろいものですよ」
 ですから、黒すぐり=真秀のことはお任せください、とローズ・リラが言い張るので、ジャンドゥヤはやむなくその役目を彼女に譲ることにした。

 残されたのはあと数時間。マドレーヌの閉じ込められた部屋のみならず、塔そのものに入るにも暗証番号が必要だと、王子はローズ・リラから聞かされていた。
 その番号を知る三人のうちの、誰から聞き出すかが課題だった。覚悟を決めて眠りについたマドレーヌは、ブラウニーを送り込んだって起きやしないだろう。
 アルジャンテは駄目だ。あいつは殺されても白状しないタイプ。たとえそれがマドレーヌを救う道とわかっていても、それは自分の役目だと。

 あとはルドルフのみ。

── ルドルフ公と話し合わねばならない ──。
 心のどこかで何かが訴えていた。彼との対決が創造者の息子としての、王子としての、ひとつの使命だと。

 城内に隠された秘密の通路を、ろうそく片手にローズ・リラに教わったとおりに進んで行くうちに、やがてオルガンの荘厳な響きが聞こえてきた。
 行き止まりの隠し扉を横にずらすと、大きな額の裏に出た。王子はそっと部屋に入り込み、若い頃の公の肖像画が描かれたその額と隠し扉を元の位置に戻しておいた。
 ルドルフ公が弾いていたのはパイプオルガンだった。知らない曲だったが、それがバッハであろうことは王子にもわかった。音楽とその奏者に一応敬意を払い、曲が終わるタイミングを辛抱強く待ってから、王子は口を開いた。

「パイプオルガンは、音楽を神に捧げるために作られたと聞いている」

 ルドルフ公は突然の侵入者に驚きを隠そうとするかのように、壁際に設置された巨大なオルガンに向かったまましばらく沈黙を守っていたが、やがてありきたりのセリフが口をついて出た。
「ここまで浸入できたとは。警備隊も落ちたものだな」
 
「両親はこの世に、あえて神の概念を持ち込もうとはしなかった 」
 ジャンドゥヤは静かにルドルフ公を追い詰めていく。
「ルドルフ公、あなたならその理由がおわかりでしょう。現実世界から来られた、あなたになら」

 硬直したまま沈黙を保つルドルフの様子からして、どうやら的を射たようだ。彼は依然として振り向きもせず、ゆっくりと皮肉っぽい口調で言った。
「アルヴィン流の謙虚さというやつか? 自分たちが神として奉られるのを嫌がった」

「事実そうではないからですよ。二人はきっかけを創ったにすぎなかった。しかし創造者としての責任があるからと、この世を平和と秩序で満たすべく努力した。だが、それだけではない。現実世界の大いなる過ちを繰り返さないようにと願ったのです」

「神の名の下による宗教戦争のことか? ふっ。いかにも彼らしい事なかれ主義だ」

「あらゆる民族、文明、そして宗教の間に優劣などない。これが両親の理念だった。なのに現実世界では互いの価値観を認めようとせず、世界中の至る所で紛争が絶えない。確かに信仰は人を強くし、愛と希望をもたらす。だが解釈を誤るととんでもないことになりかねない。少なくともこの世界においては、剣を身に付けている時代が終わり──」

「現実世界では剣が銃へと変化していったわけだがね」

「いや、そんなことにはさせない」
 ルドルフの横やりをジャンドゥヤはきっぱり否定する。
「わたしたちがもっと多くを学び、賢くなり、互いを認め、尊重し合うことができるようになって初めて、絶対的な存在を認識すべきなのだ」

「とどのつまり、そなたは神の存在を肯定しているわけかな?」

「肯定も否定もしない。わたしにはその権利がない。世の平和を望みながら、剣を携え、創造者の息子でありながら、他人に対して敵意を抱いてしまう自分がある以上、神について認識する資格もない」

「父親譲りの筋金入りだな。ご立派なことだ」

「あなたはパイプオルガンを作らせ、神への音楽を、バッハを奏でている。ルドルフ公、あなたがこそが」
 そこで王子は言葉を切り、少しためらってから突き刺すように言った。

「あなたが、第三の人物だったのですね」

 ルドルフはそこでようやく王子に向き直った。
「第三の? なるほど、奴はわしのことをそんな風に言っていたのか」
 言いながら、ルドルフは悠然と立ち上がってオルガンを後にし、部屋の中央のグランドピアノへと移動した。
 王子の位置からは彼の上半身しか見えない。王子は警戒し、彼の一挙一動に注意を払った。

「しかしそれがあなたのことだとは聞かされていませんでした。ルドルフ殿」

 静かなピアノ曲が重々しく流れ始める。暗く、もの悲しいその旋律は、破局や絶望といった言い知れぬ不安に支配されているかのごとく響いてくる。

 ジャンドゥヤは用心深くピアノに近づいていった。

「現実世界からやってきたもう一人の人物が誰であるか、ずっと探し続けていた。あるいは協力し合うことができるのではないかと」

 そこまで言って、王子はすばやく剣を抜いた。

「下手な小細工はやめて頂こう」

 グランドピアノの開いたふたの間から、演奏を続けているルドルフ公の喉元に剣を突きつける。

「わたしがその曲を知らないとでも?」

 ルドルフの右手には短剣が握られていた。そして左手だけが曲を奏で続けていた。

 スクリャービンの〈左手の為の前奏曲〉。左手だけで弾く曲でありながら、完全に両手を使っているとしか聞こえない、ピアノ音楽の真の傑作である。

「これは……! 恐れ入った」
 ルドルフ公は降参とばかりに、剣を下に向けて王子に見せてから、ストンと床に落とした。ジュッ! という音とともに小さな煙が舞い上がる。床の敷物は焼け焦げ、大きく穴が広がった。短剣に毒が塗られていたのは明白だった。
 ルドルフは空になった右手を上に差し上げながらスクリャービンを弾き終えた。

「アルヴィンの息子にしては上出来ではないか。相当に用心深いと見える」
「わたしの父が不用心だったと?」
「そうではない。奴は相手の動向には何の関心も示さなかった。相手がどう出るかなど、まったくの無関心。有史以前、つまりこのお菓子な世界の歴史が始まる前からずっとそうだった。
 わたしは対話を望んでいた。しかしアルヴィンは……、奴は常に自分の世界にだけ、生きていた」

 ルドルフは王子に右手を差し出した。
「そういう意味では、そなたは父親とは異なる道を歩んでおるようだな」

 その瞳にもはや敵意は見いだせなかった。王子は剣をさやに収め、そして二人は握手を交わした。

「王子よ。そなたなら良い王になれるであろう」

 ジャンドゥヤの胸に何か熱いものが込み上げてきた。言うんだ。ジャンドゥヤ。言うなら今だ。今しかない。
 王子は片手を胸に当て、ルドルフの足元にひざまずいた。
「ルドルフ公。マドレーヌさまを無事、塔から救出した暁には」
 そして自分でも予期していなかった言葉を口にした。
「マドレーヌさまとの婚約をお許し願いたい」
 そして一応、ひと言付け加える。
「もし彼女が望むのであれば、の話ですが」

「いいだろう。好きにしたまえ」
「ありがとうございます!」
 王子は勢いよく立ち上がった。
「急いだほうがいいぞ。今しがた、警備隊長にも同じことを言われたからな」

 警備隊長だって? 

「で、許可をされたのですね」
「ああ。わしとしてはあの二人に城を継いでもらうのが本来の希望なのでな」
 駄目もとで、王子は聞いてみた。
「ルドルフ殿、わたしに塔の暗証番号を教えて下さる気は? ……ないでしょうね」
「ここでわたしがそなたに手助けしたらフェアでないからな。悪く思わんでくれたまえ」

 あいつは最初から番号を知ってるというのに? 充分フェアじゃないではないか。いや、何としても塔には入ってみせるぞ。王子は深々と一礼し、帰りは堂々と正式な扉から部屋を出た。


── 父親とは別な道を歩む。それでいいのかも知れない ──。

 中庭に出て、ジャンドゥヤはカイザー・ゼンメル城の立ち並ぶ尖塔を見上げた。

 マドレーヌもまた、半分とはいえ現実世界の血を受け継ぐ者だった。初めて会ったときから何か通じ合うものが感じられたのは、この為もあったかも知れない。

 ふと、どこからか……、どこか遠いところから、風に乗って唄声が漂ってきた。

── 聞こえる。あのときの唄だ ──。

 忘れていた懐かしくも哀しいメロディーがよみがえり、ジャンドゥヤの息は止まりそうになった。
 自分ではどうにもならない感情が、胸にじわじわと込み上げてくる。この唄を、ずっと拒絶し続けてきた。両親を連れ去った風の唄を。

 この時になって初めて、ジャンドゥヤは風の唄がある種の「愛情」であることを知った。さまざまな愛の形。血のつながりを持つ者どうしの。親しい友人の。離れていても通じ合う、共通の意識を持つ愛する人の。自分を王のように大切に想い、慕ってくれる多くの人々の。

 そしてわたしたちを取り巻く宇宙の、自然界の、絶対的な「愛」がそこにあることを。



35.「迷宮」に 続く……




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