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人間模様から読み解く 新たなショパン像 ④ 秘密結社の同志


フレデリックの同志たち


 1814年のウィーン会議では、「ポーランド王国の自由」が定められるが、その後の帝政ロシアによる支配で、自由の原則は守られなかった。ポーランドの国全体が次第に、ロシア的な慣習や統治に染められてしまう。
 反乱の兆しは軍、大学、文学など、あらゆる場所でじわじわと、しかし確実に、若い世代を中心に広がっていった。

 フレデリック・ショパンの周辺にも、首謀者として革命に深く関わりゆく仲間が大勢いた。士官学校を拠点に置く秘密結社「自由ポーランド」の若き同志たち。
 フレデリックの根底に、祖国への尊き思いが確実に根差していくのも、この頃である。

 革命家のたまり場であったカフェ「ジウルカ(穴ぐら)」は、フレデリックが利用していた楽譜店の向かいにあった。
 珈琲や煙草の香りの中で延々と熱き議論を戦わせる、ロマン主義や自由主義に燃える若き詩人、学者、芸術家やジャーナリストら。彼らと語り合うのを楽しみに、フレデリックも足繁く通いつめる。

 ゲーテやシラー、ウォルター・スコットにバイロン、同胞のミツキェヴィチなどを熱愛する若者らの話題は尽きず、フレデリックの作った革命の歌を高らかに歌いながら、「ポヴィシレ」というカフェ界隈を夜な夜な練り歩き、カフェをはしごした挙げ句、仲間の家になだれ込んでは、音楽三昧で夜明かしすることもあった。
 それは青春の儚くも楽しき日々だった。
 こうしてフレデリック自身が「自由ポーランド」の一員でもあったことから、フレデリック・ショパンの名は、皇帝の専属になるべき類いまれなる音楽家というだけでなく、危険分子としても、ロシア政府からマークされていく。
 やがて革命が起こるも、頓挫した後は仲間の多くがロシアの追っ手を逃れ、亡命先のパリにてフレデリックとも合流することになる。

 フレデリックとは昔なじみの貴重な音楽仲間。
「自由ポーランド」の理論的指導者にして──実践的指導者は歴史学者のヨアヒム・レレヴェル──、ワルシャワ武装蜂起の中心的存在。

 ミツキェヴィチら新しい芸術の擁護者で、自らも文才があり、ピアノも弾き、文芸作品の批評家としても定期的に評論を担うなど、各方面で高く評価されていた新進気鋭の政治活動家であった。

 はやぶさを思わせるような精悍な面持ちに加え、その熱血漢ぶりに、フレデリックは圧倒されつつも深く魅了されており、モフナツキのほうもフレデリックの音楽を高く評価していた。

 革命の折は、チャルトリスキ公(後述)の和解策を断固拒絶する急進派であった。パリに亡命後、フレデリックと再会するも、早くに亡くなってしまう。



 詩人にして大切な友。
 故郷を後に、ウィーンでの滞在を経て、痛恨の思いで更なる新天地のパリへと向かう間も、フレデリックはヴィトフィツキの書いた詩を大切に持ち歩き、歌曲として曲をつけたりしている。

 彼の詩には、遥かな憧れや、愛する者を失った悲しみ、闘志に満ちた熱き思いといった、フレデリックの心情とも重なる世界が素直に語られており、当時、孤独と絶望にさいなまれていたフレデリックにとって、何にも代えがたい心の支えとなっていた。

 ヴィトフィツキ自身は革命家ではなかったものの、革新的な詩の内容に加え、自由ポーランドの危険分子を深く関わっていたことから、祖国を追われることになる。フレデリックとはパリで再会し、温かな交流が続くが、その死はフレデリックより2年早かった。

 フレデリックの没後に出版された最後の作品番号となる Op.74の、《17のポーランドの歌》のうち、〈願い〉、〈春の歌〉、〈悲しみの川〉、〈酒の歌〉、〈彼女が好きなこと〉、〈使者〉、〈戦士〉、〈指輪〉、〈花婿〉の9曲が、ヴィトフィツキの詩によるもの。

 フレデリックがポーランドの民族音楽を弾く様子をとりわけ愛していたヴィトフィツキの為に、Op.41の、〈4つのマズルカ〉が献呈されている。



 ザレスキもまた、「自由ポーランド」の同志で、革命後に国を追われ、パリでフレデリックと交流を続けた詩人である。
 フレデリックを評し、「賢明でウィットにとみ、輝かしき知性の持ち主」と語っていた。
 彼の妻はパリ時代のフレデリックのピアノの弟子でもあった。

〈美しき若者〉、〈ふたとおりの結末〉、〈私の見えないところに〉、〈ぼくの可愛い甘えんぼさん〉の、4編の詩が、フレデリックにより歌曲として作曲されている。

  どうか思い出してもらいたい。
  ポヴィシレの闇の中、ぼくらみんなして、
  歌を求めて歩き回ったじゃないか。
  ステファン? 気が遠くなってしまいそうだ……
  あの2人の音楽家、夜の魔術師たち
  ショペネックに、マウリツィ……

 これは後年ザレスキが、前述の詩人、ステファン・ヴィトフィツキに宛てて書いた思い出の一節である。
「音の魔術師」ともいえるほどに素晴らしかった、ショパン(=ショペネック)と、今は亡きモフナツキ(=マウリツィ)の音楽。志を共にする彼らとつるんで大いに羽目を外し、はしゃぎ回っていた頃の、懐かしくも忘れ難き日々.……。

 ザレスキ、ヴィトフィツキら叙情派の詩人に、文才だけでなく音楽的才能にも恵まれていたモフナツキ、そして音楽家のショパン。同志という強い絆で結ばれていた彼らが、遠い異国のパリの地で亡命生活を余儀なくされつつも、遙かな故郷と、在りし日の青春の思い出、当時の熱き情熱は、間違いなく創作の貴重な源となっていたことだろう。



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