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それは寂しさだったけど、悲しみではなかったのだ。

最近、noteで書いた自分の言葉に自分が救われた出来事があった。
noteやっていて本当によかった、と思った出来事だった。

とても私事だ。そして、少し寂しい話である。

自分の中で整理もついたし、何よりタイトル通り、私の中で悲しいことではないので、自分のためにも文章として今の気持ちを残しておこうと思う。

じいちゃんをお見送りした。

転んでしまってしばらく入院していた。とても心配していた。容体が良くなったり悪くなったりして、少し良くなったよと従妹から聞いた直後のことだった。

コロナがなければ入院の時点で駆けつけていた状況だが、最後に会うことも葬儀に出ることも叶わなかった。 

母だけが向かい、叔母を手伝っていろんな手続きや式の手伝いをしてくれた。

ありがたかったのは、このコロナ禍ではできないケースも多いらしい、病院から自宅への帰宅が叶ったことだった。 

一晩だけだったが、オンラインでじいちゃんたちと過ごした。

じいちゃんは私が小さい頃から本格的なビデオカメラを趣味で使っていて、私たちの成長を録画しては、それをビデオテープにやいてためてくれていた。その映像を流しながらみんなであんなことがあった、こんなことがあったと話した。

とても穏やかな時間が流れ、それをみんなで共有できたが、泣くことだけができなかった。
孫の中でも一番泣きむしな私がである。 

オンラインには限界がある。温度を感じられないこと、雰囲気が伝わらないこと。音に声に、空気の震えがないこと。見ているものが、ほんものではないこと。

どうしても実感がわかなかったのだ。じいちゃんがもういないということの。

画面越しに目の前にいるじいちゃんが、もう起きないということの。あまりにも普段どおりに、じいちゃんは寝ていた。

コロナを恨む気はない。運命だったにちがいない。そう思うと決めていた。

なぜだかコロナ禍になる前の一年間だけは、私は3か月に一度の頻度でじいちゃん家を訪れていた。

仕事を辞めて時間ができたからでもある。そこから近い町に、大好きなお店があったからでもある。そして何より、じいちゃんとばあちゃんに会いたかったからだった。

神様なんて信じていないが、そのことだけは何かおおきなものの計らいであったのかもしれないと、今となっては思う。そのことが確かに私から後悔を減らしていた。

でも私は初孫だ。誰よりも長い間かわいがってもらった。おそらく誰よりも私はおじいちゃんっ子だった自信がある。こんな状況でも、まだ私にできることはないか。

思い出したのがnoteの存在。じいちゃんのことを書いたエッセイがあった。 

いつも野菜をたくさん育てて私たちに送ってくれていたじいちゃんと、その野菜の中に紛れ込んでいたむしたちの話。じいちゃんが私にくれた愛の話だ。

それを紙に清書して、速達で送った。

そうしたら叔母と母の計らいで、当日は難しいということでその前日に、私がオンラインでじいちゃんに向かってエッセイを朗読できる時間を作ってくれたのだった。

その文章を声に出して読み始めたら、自分でも忘れていたようなたくさんの思い出が溢れてとまらなくなって、ぼろぼろと泣いた。何回か朗読をとめた。

泣いていいよ、と言ったのは、私の文章だった。その文章を書かせてくれたのは、確かに生きていて、今はもういない、私のじいちゃんだった。

心から、「ありがとう」と「さよなら」を私は言うことができたのだ。

式当日は母が代わって朗読してくれた。
ちょうどその時間、私はじいちゃんの好きだった「知床旅情」の歌を、京都の空の下で歌った。

この状況の中でできる限りの、お見送りだったと思う。

順番だ。じいちゃんは自分の時間を生き切って、順番どおりに命を返した。

それはきっと、じいちゃんにとって十分な時間だったのだろう。
でも、もう一度会いたいと思ってくれたことを私は知っているし、思い通りにならなかったことをじいちゃんが怒らないことも私にはわかる。

だって私のじいちゃんだからだ。
ものづくりの楽しさを教えてくれて、土と虫と生きる当たり前を教えてくれて、絶対になくならない愛をくれた私のじいちゃんだからだ。

私たちが元気ならそれでいいと言うだろう。 

一度も声すら荒げなかった、ずっとかわいがってくれた。ユフはすごいなあ、が口癖だった。 

大嵐の中を、泣いてわがままを言う私のために離れまでおもちゃを取りに行ってくれたじいちゃん。 
神奈川から遠く和歌山まで、車を運転して遊びにきてくれたじいちゃん。

じいちゃんにとって私の代わりは絶対にいないことを伝えつづけてくれた。だから私も信じていられた。それはどれだけ、大きくなってからの私の支えになっただろうか。

そしてこれからも、絶対に消えることがない。



そういえば、じいちゃんもとっても泣きむしだった。 

私のじいちゃんになってからもよく泣いてた。
私が歩いた、私が和歌山に帰りたくないと泣いたのに釣られた、私がじいちゃんの絵を描いた、私が、一人でじいちゃん家に遊びに来た…。そういうときにいつも。 

私はじいちゃんに似たのだ。
そうなんだよ、じいちゃん。

そんな泣き虫のユフは、この文章を書きながらまた泣いている。

土に鍛えられた強く硬い手も、いつも自分のと比べた大きな足も、じいちゃんの身体はもう、あの姿でこの世界にはないという寂しさだ。 

でもそれは悲しみとはちがう。

だって私は今あたたかいからだ。じいちゃんのくれたすべての思い出と愛のおかげで。

ありがとう、じいちゃん。
私もいつか命を返したそのときは、風に舞って、またどこかで行き会おうね。


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