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ケムール人が繋いだ過去と未来と父の思い出。

うちの父はケムール人が大好きだ。

父は昔からウルトラQが好きで、中でもケムール人がお気に入りである。
我が家にはケムールのソフビ人形とぬいぐるみとマスク(何故)がある。
そして父は私たちの小さい頃、よくケムール走りを披露していた。すごく怖い走り方するのだ、あの怪人(父じゃなくてケムール)は。その真似をして私たちを怖がらせる子供みたいな父だった。

ケムールは1966年の日本に、未来からやってきた新人類という設定。何故か旧人類をさらいにやってきて、彼らに触れてしまうと未来に転送されてしまう。怖い。しかも奴ら、透明になれる。怖い。

そんな彼らがやってきたのが、2020年の世界からだったわけで、去年は父にとってはコロナの年というよりはケムールの年なのだった。

去年電話で話した時に、
「ケムールはコロナだったのか…。」
と呟くなどしていた。
 
あと、やたらケムール人の画像をメールに添付してきていた。
何歳になっても怖いものは怖い。やめていただきたい。

まだ小学生だった父にとってもそんな化け物は怖い存在であったし、そんな奴らの生きているような、遠い未来と思っていた時代に自分が生きていることが信じがたいようだった。

ことあるごとに、「そうか、もう2020年なんだなあ。」と言っている。

長く生きるということは、記憶と現実、希望と失望、思い出と想像、そのほかにもいろいろなものが交差し連鎖するということなのだろうと思う。
 
ときに、世界や時代すら交わることもあるのかもしれない。

自分の記憶の中の未来と現実の未来が交差したとき、私は何を思うだろうな、そんなことを思いながらケムールを思う父を見ている。

と言っても、アトムが生まれたのは2003年でそんなに実感のある頃ではなく、ドラえもんがやってくる未来は2123年とちょっと私は生きていられない未来なので、父と同じ感情には浸れそうもないけれど。

でもなんとなく、ああ、いま父は、母は、子供の頃に戻っているなあ、と思うことが最近多い気がしている。

生きるということはきっとそういうことで、だからこそ思い出はかけがえないのだろうと思っている。

そしてそんな父は、コロナのせいで私たちに会えないのが悲しいらしい。
「ケムールめ!」と悔しがっていた。流石にそれは冤罪。ケムールは無実である。

ただちょっと酒の量が増えているのは娘、気になるかな。1日にストロング缶を2本も空けてはいけません。

Bluetooth非対応の電子機器しか持っていないのに、ワイヤレスイヤホンを2本も衝動買いしてはいけません。

電子レンジにお菓子を貯め込んでもいけません。

そんな父が大好きなので、もうちょっと和歌山で頑張ってほしい。

私は京都でもう少し、今しかない今を積み上げていこうと思う。

いつか過去や未来と交差して、父の気持ちがわかるといいな。





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