ふつうの日の記憶

初めて日記帳が欲しいと思ったのは小学校3年生の時でした。

初めて買った日記帳の色や模様がどんなだったのか、何十年も経っているのにはっきりと思い出すことができます。

ところが、その日記帳には殆ど何も書けないまま単なるメモ帳化してしまったという悲しい事実もあるのです。三日坊主とも何か違ったんですよね。実は、日記を書き始めたときに、「あれ?そんなつもりじゃなかった。」と思ったことも覚えているのです。

日付を書く、曜日を書く、天気を書く、その日あったことを書く。

イベントがある日は「今日は運動会だった」とか書けるけど、何もない日は何も書けない。それで、フェイドアウトしてしまったのでした。

でも日記帳が欲しいと思ったときに書きたかったことはそういうのではなかったんですよね。

本当は、何もないふつうの日の記憶を残したかったのです。

何か特別なことのある日は特別だから記憶に残る。写真が残ることもある。だから忘れにくいわけです。でもふつうの日はそうもいかなくて、今日みた空は昨日みた空とはこんなにも違うのに、昨日も今日も記憶の中で混ざって、いつしかきれいに忘れ去ってしまう。

子ども心にそれが何だか切なくて、それで思いついたのが日記帳だったのだと思います。

ところが、当時の私は日記の形式に囚われてしまっていて、特別な日に書く夏休みの宿題の絵日記的な日記をつけ始めてしまったのだと思います。それで最初の動機であったふつうの日に何も書けなくなってしまったのでした。

結局ちゃんとした日記が書けるようになったのは中学生くらいだったかな。

忘れることは、わるいことではありません。もしかしたら憶えていることと同じくらい大切な能力なのかもしれない。
でも忘却の彼方へ押しやる時間のなかで、ひとかけらくらい日付付きでとどめておく瞬間があってもいいのかな、と思います。何でもない日常の景色は、時々妙にいとおしかったりしませんか。
それは大抵、忘れても差し支えないどうしようもなく詰まらない景色なのだけど、でも私の日常の大半はその景色でできているから。

たぶんこのnoteにも、そんな取るに足らないふつうのことをたくさん書いてしまう気がします。

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