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秩父の旅③ちちぶ銘仙館と秩父の織物

 前回の秩父の記事から、少し間があいてしまいました。秩父の旅、最終回の今回は、予定外だったけれども、行ってみたら意外と面白かったスポットをご紹介します。秩父の旅の過去記事は、こちら。↓


 秩父で見たかったところは見終わって、西武秩父駅に戻ったものの、帰るにはまだ早い時間。友人が、駅の比較的近くにちちぶ銘仙館というところがあって面白そうだから、行ってみないかと提案してくれたので、その提案に乗ることにしました。ちちぶ銘仙館には徒歩で向かいます。ありました。入口からのぞくだけでも、いい感じ。↓

入口の門から、ちちぶ銘仙館をのぞく

このちちぶ銘仙館(国の登録有形文化財)、昭和5年に、織物組合が資金を出し、地元の大工の方によって建てられたそうですが、フランク・ロイド・ライト様式なのだとか。確かに、足元に大谷石が使われています。↓

ライト様式のちちぶ銘仙館
工場棟に向かう廊下の足元にも大谷石が

大谷石を使ったライトの作品は、過去に記事にしたことがあります。似ているでしょうか?↓

工場棟ののこぎり屋根は、織物工場などでよくみられます。安定した一定の光源を得られる形式らしいです。↓

ちちぶ銘仙館工場棟

工場棟には大きな整経の機械やら何やら色々あったのですが、なんだか圧倒されて写真を撮り損なってしまいました。(思いがけず面白いものをみると、コーフンして、写真を撮り忘れることがしばしば あります。)内部が気になる方は、是非ちちぶ銘仙館のHPをご覧になってください。
とりあえず、秩父銘仙の着物の写真を一枚だけ撮っていたので、それをupします。↓

秩父銘仙の一部

かわいいですね。

 しかし、なぜ秩父で織物が盛んになったのでしょう。それは、秩父の土地の特性のためだと言います。秩父は、山あいで平地が少なく、その少ない平地も荒川の河床だったところで、石ころが多く、水はけがよく、米作には向かなく、また寒冷地ゆえ、果樹や茶の栽培にも適しませんでした。それで植えられたのが桑でした。湿気を嫌う桑は、寒冷地や山地でもよく育ち、蚕のエサとなります。また、カルシウムが多く、アルカリ性の水質は、染色の発色を良くし、染色にも適していました。こうした理由から、秩父では昔から養蚕業と織物が盛んだったそうです。江戸時代には、規格外の繭を使って、「太織」と呼ばれる野良着を織っていて、それが大衆の普段着として好んで使われるようになり、その「太織」がのちに「銘仙」となりました。(この頃には良質な生糸は海外輸出用でした。)銘仙はエコなものだったのですね。

秩父のシンボル武甲山と秩父の市街地
武甲山は石灰岩質

ほぐし捺染(そろえた経糸に粗く緯糸を仮織し、そこに型染めして、製織する技法)という手法が開発されると、二つ上の写真のように、大胆で華やかなデザインの織物が可能になり、銘仙は、女性の間で、手軽なおしゃれ着として、大正から昭和初期にかけて全国的な人気を誇るようになったのだとか。このような時代を背景に、最盛期には、養蚕業を含め、秩父の人口の7割が織物関係の仕事に関わっていたと言われますが、人々の普段着が着物から洋服に移り変わるにつれて、こうした産業も衰退傾向に。しかし、2013年、秩父銘仙が「国指定伝統的工芸品」に指定され、現在は、後継者の育成や需要開拓などに励まれる方々もおられ、このちちぶ銘仙館では、手織り体験や、ほぐし捺染などの体験も開催されています。私が訪問した日は、コロナ禍ということで休止中でしたが、現在はその活動も再開しているようです。館内もリニューアルしたとのことで、また行ってみたい!友人の提案のおかげで、思いがけず刺激のある時間を過ごすことができました。ちちぶ銘仙館の場所はこちら。↓


 以上、三回に渡って、三年ほど前の秩父の旅を記事にまとめてみました。振り返ってみると、古墳といい、和銅といい、金昌寺の石仏群といい、秩父銘仙といい、すべて秩父の風土によって育まれたものだったのだなぁと改めて気づかされました。
 秩父には面白そうな場所がまだまだあります。また訪問したいと思っています。

 最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

(参考資料
①『秩父に息づく大地の記憶』秩父まるごとジオパーク推進協議会、2021年
②ちちぶ銘仙館HP
③『別冊太陽 銘仙 大正昭和のおしゃれ着物』、平凡社、2004年
④Youtube動画「秩父銘仙をたずねて」秩父おもてなしTV)


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