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秩父の旅②和同遺跡とマリア観音(?)

 秩父の旅、二回目は、和同遺跡と金昌寺にあるマリア観音(?)を見に行ったときのことを書きます。


 秩父の和銅献上がきっかけで、和銅改元がなされ、和同開珎が発行されることになりました。そんなわけで、秩父には和銅遺跡が残っているとのことで、まず、その遺跡を訪れてみることにしました。

 秩父鉄道「和銅黒谷駅」で下車して、まずは聖神社(秩父市指定有形文化財)に向かいます。聖神社内にあるという和銅鉱物館を見学したかったからです。駅から徒歩7分ほどで、聖神社に到着。階段を登った先にある聖神社の前では和同開珎の大きなレプリカがお出迎え(写真には撮っていませんでした)。そのわきに和銅鉱物館があったのですが、残念!鉱物館は閉まっていました。気を取り直して、和銅遺跡(和銅採掘露天掘跡)を目指します。目指したのはいいのですが、ぱったり人の気配がなくなってしまいました。神社にはそれなりに参拝客がいたのですが、こちらの遺跡まで行く人は少ないのでしょうか。案内板に従って進みますが、うっそうとした木々の中を歩くことになり、ちょっと憂鬱な気分に。秋に行ったのですが、夏だったらもっと葉っぱが生い茂って、外から死角になりそうですし、虫もいっぱいいそう。ここには一人で行くのは絶対お勧めしません。私もこの日は友人と行きました。どんどん不安になりつつ、帰りたいと思っているとようやく和同開珎のモニュメントが!↓

和銅採掘露天掘跡の近くにある和同開珎のモニュメント
薄暗いので、何回撮っても手ブレてしまった

この少し上に、和銅採掘露天掘跡がありました。それがこちら。↓

和銅採掘露天掘跡
薄暗くてやはりここでも手ブレてしまった

この和銅採掘露天掘跡、地質学的には、外秩父山地の岩石(約2億年前)と秩父盆地の新第三紀の地層(約1500万年前)との境になっている出牛ー黒谷断層の破砕帯だそうです。(破砕帯とは、断層の動きにより岩石が細かく砕かれた部分が帯状に連続して分布しているところだそうです)といっても、実際みたときは、高いな!怖いな!こんなところで作業するのは大変だな!と思っただけだったのですが。この辺りから反対方向を望むとこんな感じ。↓

和銅採掘露天掘跡あたりから反対を望むと山々が見える

外は快晴でも、和同開珎のモニュメントや和銅採掘露天掘跡のあたりは、うっそうとして薄暗いんです。とりあえず和銅遺跡をみて達成感を得たので、そそくさと外に出ます。和銅遺跡に詳しい秩父市和銅保勝会のHPをみていたら、昨年は、この辺りに落石注意のお知らせが出ていました。大雨のあとは、晴れた日でも落石の危険があるのだとか。こちらを訪れる際は、秩父市和銅保勝会のHPを確認してから行かれる方がいいかもしれません。

 和銅遺跡を訪れた後は、マリア観音(?)があるという金昌寺に向かいました。といってもちょうどいい交通機関がないので、徒歩で向かいます。車は通っても、歩いている人たちはいなく、アウェイ感が漂います。気分が落ちそうになりながらも、途中、こんな風景をみつけては↓テンションを上げます。

金昌寺へ歩く道のりでみつけた岩肌

その後も、ひたすら歩くこと1時間以上、ようやく金昌寺に到着しました!

秩父札所4番 金昌寺
大きな草鞋がお出迎え

大きな草鞋のかかった仁王門をくぐると、マリア観音は意外とすぐ近くに。↓

金昌寺の慈母観音(子育て観音)
マリア観音とも言われるらしい

正確にはマリア観音ではなく慈母観音(子育て観音)だとか。この仏像は、金昌寺のご本尊の霊験で子を授かったのものの、その後、相次いで子と妻を失った(秩父ではなく)江戸の吉野屋半左衛門が、1792年(寛政4年)に奉納。生前の母子の姿を浮世絵師に下絵を描かせて、建立・供養したのだそう。では、この仏像がなぜマリア観音とも呼ばれるかというと、写真にはうつっていないのですが、台座の蓮の葉に後ろ向きのカエルがいて、「見返る→見カエル→ミカエル」で、マリア観音!ということだそうです。皆様、どう思われますか?私は正直、「え?マリア観音?」と思ったのですが、友人は「とはいえ、仏像にもあまり見えない」と言っていました。どういうふうにも見えるので、人の想像力をかきたてるのでしょうね。

この金昌寺、まだ奥があって、そこには石仏がたくさんあって、地質学的にも興味深い場所だそうです。それがこちら。↓

「不整合」

ここは、下部が三波川帯の蛇紋岩(約8500万年~約6600万年前)、上部が秩父盆地内の礫岩層(約1500万年頃)で、このように両者の間に時間的に大きな隔たりがある関係を「不整合」というそうです。こういう不思議な場所に、石仏などを置きたくなる気持ちはわからないでもないです。でも、じつは、石仏におびえて、現地ではあまりしっかりこの場を見ることができず、ここでも写真は手ブレてしまいました。この金昌寺には、ここ以外にもこのような石仏がたくさん並んでいるのですが、これは1783年(天明3年)に起こった浅間山の大噴火による大飢饉で亡くなった秩父の多くの人たちの供養と、寺の興隆のため、1789年(寛政元年)、当時の住職が石造千体仏安置を発願し、7年の歳月をかけて成就したものだそうです。ちなみに、この石仏たちは、ここからもっと奥の小鹿野町で産出する「岩殿沢石」(凝灰質砂岩)でつくられていて、道端に置かれた石材を「功徳石」と呼んで、巡礼者が少しずつ運んだと言われています。札所4番 金昌寺は、境内全体が供養の気に満ちたお寺でした。


帰りは、金昌寺の前のバス停から、西武秩父駅に戻りました。
当日の行程はこちら。↓ 

次回、最終回は、予定外に立ち寄ってみたら、意外と面白かった秩父のスポットをご紹介したいと思います。(その前に、一度読書感想文が入るかもしれません。)引き続きお付き合いいただければ幸甚です。

(参考資料
①ジオパーク秩父 公式ガイドブック『秩父に息づく大地の記憶』秩父まるごとジオパーク推進協議会、2021年
②秩父市和同保勝会HP
③『秩父三十四カ所めぐり』JTBパブリッシング、2016年
④秩父三十四所観音霊場HP)

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