ゆかし

神社仏閣巡り、美術館・博物館巡りが好きです。 世界史と日本史を同時並行に考えられるよう…

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神社仏閣巡り、美術館・博物館巡りが好きです。 世界史と日本史を同時並行に考えられるようになりたいです。 散策や読書を通じて「へぇっ」とか「えぇ!」とか思ったことを綴っています。

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    神社仏閣、遺跡巡りが趣味なので、ときどき歴史系の記事を書きます。

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    歴史散策の記事を随時upしていきます

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    ネストリウス派(景教)に関連する記事を随時upしていきます

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    おもに日常(たまに非日常も)で撮った写真をまとめています。

最近の記事

目黒の大久保長安&キリシタン伝説について

 目黒の碑文谷の近くには鉄飛坂という坂があって、そこには、下のような看板が出ています。↓ ここに書かれたポルトガル人テッピョウスという人物は、大久保長安伝説に出てきます。その伝説の内容について、『目黒史』は以下のように書いています。 また「目黒史」という写本があって、そこにはヒモンヤス、テッぺヨースがルイス・ソテロの配下であったとか、目黒付近にはキリシタンの旗本が5名潜伏して、現在の大鳥神社や岩屋弁天付近を根城とし、行人坂に坑道を掘って、鉱山技術を習得したとか、長安の死後

    • 中目黒・正覚寺に行ってみた~伊達家と縁の深いお寺~

       先日、目黒の碑文谷にある旧法華寺(現・円融寺)とその関連場所を散策しました。↓ 今回は、伊達家と縁の深い中目黒の正覚寺を見てきたときのことを書きます。正覚寺は、元和5年(1619年)に開山した日蓮宗のお寺で、雑司ヶ谷の法明寺と同じく、旧法華寺(現・円融寺)の末寺で不授不施派のお寺でした。鬼子母神堂もあります。(雑司ヶ谷の法明寺の記事はコチラ↓) では、早速見ていきましょう。  中目黒駅から徒歩5分、正覚寺の前にたどり着きました。↓ 「鬼子母善神」と彫られた石標があり

      • 目黒・碑文谷散歩~東京23区内最古の建築物や碑文谷鬼子母神堂などを巡る

           今回は、目黒の碑文谷の辺りを散歩してきたときのことを書きます。この辺りには、東京23区内で最古の建物や、碑文谷鬼子母神堂などがあります。では、早速見ていきましょう。  まず最初に、碑文谷八幡宮に立ち寄りました。↓ 背の高い木々がたくさん茂っていて、雰囲気のある場所です。村の鎮守の神様だそう。 碑文谷八幡宮で、ご挨拶を済ませたら、早速、東京23区内で最古の建物がある円融寺に向かいます。円融寺の入口が見えてきました。↓ 円融寺が、どういうお寺かというと↓ 寺伝によ

        • 高山右近と金沢とトマス伊地智

           前回の記事で、高山右近が人生の後半生を加賀前田家で過ごしたことを少し書いた。↓  キリシタン研究で著名なチースリク師の『高山右近史話』(聖母文庫、2016年)を読んでいたら、右近のいる金沢に、トマス伊地智(本文ではトマス伊智地になっている)が派遣されていたと書いてあって驚いた。個人的な興味から、小西行長に仕えた大坂のキリシタン伊地智(知)文太夫の息子たちの行方を追っていて、このnoteでも彼らの記事を書いたことがあるが、トマス伊地智とは、この伊地智文太夫の息子の一人なので

        目黒の大久保長安&キリシタン伝説について

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        記事

          前田利家と高山右近と小田原征伐と雑司ヶ谷・法明寺

           キリシタンにあまり興味がなくても、キリシタン大名と聞けば、高山右近の名前を思い出す方は少なくないのではないか。キリシタン大名も色々だが、高山右近は、最後までキリスト教信仰を真っすぐに全うした数少ない人物である。そんな高山右近は、63年の人生のうち、後半の約26年間を加賀前田家の元で過ごした。1587年の秀吉による伴天連追放令のあとも棄教しなかった右近は、小西行長によって小豆島に匿われたが、行長の移封に伴って右近も肥後に移った。肥後に右近がいることを知った秀吉が、右近を大坂に

          前田利家と高山右近と小田原征伐と雑司ヶ谷・法明寺

          豊島区雑司ヶ谷 鬼子母神巡り~加賀前田家の人々と『甲陽軍鑑』関係者~

           今回は、池袋や目白にほど近い雑司ヶ谷の鬼子母神堂とそれに関係する場所~清戸鬼子母神堂、雑司ヶ谷鬼子母神堂、法明寺~を巡っていきたいと思います。その過程で、この辺りは、加賀前田家のみならず、『甲陽軍鑑』の成立に関わった人物とも縁があるんだなぁと気付いたので、その辺りのことを書きたいと思います。  散策を始める前に、まず鬼子母神とは何ぞやという話です。鬼子母神はインド由来の神様で、もともとは、子だくさんながら、他人の幼児をとって食べる残虐な存在だったのですが、お釈迦様に末の子

          豊島区雑司ヶ谷 鬼子母神巡り~加賀前田家の人々と『甲陽軍鑑』関係者~

          浅草鳥越フランシスコ会の施療院と伊達政宗、そこからの松平忠輝と大久保長安

           前回、慶長18年(1613年)に浅草鳥越で殉教したキリシタンの殉教碑を見てきた話を書いた。↓ 当時、浅草鳥越には、フランシスコ会のルイス・ソテロが建てた施療院があり、1613年の殉教者たちは、そこにいた人たちであった。このとき、実は、ルイス・ソテロも捕まったのだが、伊達政宗の助命運動により助かった。この三年前、政宗の侍女が病に伏したとき、政宗は、ソテロに修道院付属病院のプルギヨスという医者の来診を請い、ソテロはそれに応えていて、二人は知り合いだった。政宗は、ソテロを将軍の

          浅草鳥越フランシスコ会の施療院と伊達政宗、そこからの松平忠輝と大久保長安

          浅草のキリシタン遺跡を巡ったら、宮本武蔵に見出された武田家重臣の子孫とかいう人物にぶつかって驚いた話

           最近、浅草のキリシタンが気になるなぁと思って、浅草のキリシタンの遺跡を巡りました。巡ってみたら、思いがけず、武田家の重臣・高坂弾正こと春日虎綱の子という存在にぶつかって驚きました。今回は、その辺りのことを書きたいと思います。  JR浅草橋駅西口から徒歩8分。カトリック浅草教会の一角に、浅草・鳥越きりしたん殉教記念碑があります。↓ 殉教記念碑の説明板によれば、1613年8月16、17日、9月19日の三回に渡って、キリシタン計27名(小伝馬町牢で獄死したアポリナールという人

          浅草のキリシタン遺跡を巡ったら、宮本武蔵に見出された武田家重臣の子孫とかいう人物にぶつかって驚いた話

          金山衆と大久保長安とキリシタン

           以前から、「金山衆」という存在が気になっていた。前々回、大久保長安について少し書いたけれども↓ 家康時代、長安が活躍できたのは、金山衆という存在があったからではないかと思っている。そこで今回は、「金山衆」とはどういう存在だったのか まとめてみたい。  「金山衆」は、戦国時代の甲斐や駿河に(あるいは信濃にも)存在したが、彼らは、間歩・堀場の所有者かつ稼業者で、山主(山師)であった。彼らは、金を採るだけでなく、たびたびトンネル戦法で武田氏の城攻め~永禄5年(1562)の武蔵

          金山衆と大久保長安とキリシタン

          武田勝頼と龍勝寺殿と高遠

           最近、集中的に武田勝頼関係の本を読んでいた。勝頼というと、父・信玄と比べてボンクラだったというイメージがあったが、そのイメージが誤解だとわかった。同時代人の信長は、勝頼のことを「油断ならぬ敵」と書いていたそうで、研究者の平山優氏によれば、勝頼が暗愚と評価されるようになったのは、近世以後のことらしい。信玄の四男として生まれ、高遠諏方氏の養子になったが、思いがけず武田家を継ぐことになった勝頼は、高遠の養子先でも、甲府の武田家中でも、複雑な人間関係の中に置かれ、そのような大変な環

          武田勝頼と龍勝寺殿と高遠

          佐渡金山奉行 大久保長安の墓~山梨県甲府市 天尊躰寺

           先日、山梨を訪問した際、甲府市内に佐渡金山奉行だった大久保長安のお墓があると知って、行ってきました。そのお墓は、身延線金手駅ちかくの天尊躰寺にありました。 お墓は本堂の前にありましたが、もとの場所(天尊寺開山の墓所)から改葬されたものだそうです。  なぜ、佐渡金山奉行の大久保長安のお墓が甲府にあるかというと、長安が甲斐と縁が深い人だったからではないでしょうか。ここで少し、大久保長安の人生をざっと振り返ってみたいと思います。  大久保長安は、猿楽師の次男として生まれまし

          佐渡金山奉行 大久保長安の墓~山梨県甲府市 天尊躰寺

          キリシタン大名・有馬晴信と山梨県栖雲寺の十字架を持つ聖像

           山梨県の栖雲寺に、有馬晴信ゆかりのものであったという伝承のある 十字架を持つ聖像(伝「虚空蔵菩薩」像)が伝わっており、この絵は現在、山梨県立博物館に寄託されているという。先日、山梨に行く際、せっかく山梨に行くのなら、この絵も見てみたいと思って博物館に問い合わせたところ、現在は展示されていないとのことだった。それで、結局、博物館には行かず、この絵もみることができなかったのだが、とりあえず、今回はこの絵について少し書いてみたい。この絵の全体像は、こちらのページでみることができる

          キリシタン大名・有馬晴信と山梨県栖雲寺の十字架を持つ聖像

          甲府への旅~武田神社、甲府城跡、山梨ジュエリーミュージアムetc.~

           先日、用事があって、甲府に行くことになりました。せっかく甲府に行くのなら、歴史散策もしたい!と隙間時間に散策もしてきました。時間的に甲府駅周辺しか周ることはできなかったのですが、楽しかったので、自分の記録用として、今回の記事を書くことにしました。お付き合いいただける方がいらっしゃいましたら、幸いです。  今回の甲府散策で、どうしても行きたかったのは、信玄ミュージアム(甲府市武田氏館跡歴史館)と武田神社です。武田氏に以前から興味はあるものの、本を読んでも、その内容が全然頭に

          甲府への旅~武田神社、甲府城跡、山梨ジュエリーミュージアムetc.~

          聖母崇拝って何なの?とか戦国時代の日本とか

             前回、聖母マリア像に関する記事を書いてるうちに↓ キリスト教の聖母崇拝って何なんだろうと改めて考えるようになった。   キリスト教といえば、聖母マリア像を思い浮かべる方も多いかもしれないが、聖母マリアを崇拝するかどうかというのは、キリスト教内部でたびたび大きな論争となっている。5世紀、マリアを「神の母」(テオトコス)としなかったネストリウスは排除され、16世紀、聖母崇拝を否定したルターはローマ教会から離れ、いわゆるプロテスタントの教会が形成された。プロテスタント諸派

          聖母崇拝って何なの?とか戦国時代の日本とか

          おとめマリアとアテナ、イシス~中村圭志著『宗教図像学入門』を読みながら

           聖母マリアは、「おとめマリア」すなわち「処女マリア」ということになっているが、宗教学者の中村圭志氏の『宗教図像学入門』(中公新書、2021年)によれば、英雄的・神的人物が処女から生まれるというのは、ユダヤ系の神話ではなく、ギリシア・ヘレニズム系の神話なのだという。旧約聖書のイザヤ書にみえる「見よ、おとめが身ごもって男の子を産み…」の「おとめ」は、ヘブライ語で「アルマー」といい、この言葉は結婚適齢期の少女の意であり、「処女」という意味ではないらしい。しかし、当時使われていたギ

          おとめマリアとアテナ、イシス~中村圭志著『宗教図像学入門』を読みながら

          秩父の旅③ちちぶ銘仙館と秩父の織物

           前回の秩父の記事から、少し間があいてしまいました。秩父の旅、最終回の今回は、予定外だったけれども、行ってみたら意外と面白かったスポットをご紹介します。秩父の旅の過去記事は、こちら。↓  秩父で見たかったところは見終わって、西武秩父駅に戻ったものの、帰るにはまだ早い時間。友人が、駅の比較的近くにちちぶ銘仙館というところがあって面白そうだから、行ってみないかと提案してくれたので、その提案に乗ることにしました。ちちぶ銘仙館には徒歩で向かいます。ありました。入口からのぞくだけでも

          秩父の旅③ちちぶ銘仙館と秩父の織物