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苗木城跡と家臣団の墓と肥後の侍~加藤清正家のお家騒動と伊地知兄弟~


 数年前、何回か、岐阜県中津川市にある苗木城跡を訪れたので、そのときのことを書きたい。

 苗木城跡は、石垣が残るだけの山城だが、最近は「天空の城」などと呼ばれて、人気らしい。たしかに、山城の天守跡からの眺め~木曽川や石垣、山々~は、なかなか魅力的だった。↓

天守跡展望台とその石垣
天守跡展望台から木曽川と中津川市街と恵那山を望む
天守跡展望台から大矢倉跡の石垣を望む

 ところで、苗木藩は、藩としては約一万石の小藩であったが、初代藩主・遠山友政が関ヶ原で東軍として参加し、この友政から続く遠山氏が、幕末明治の12代友禄に至るまで、譜代に近い外様大名として苗木藩の藩主を務めたのが特徴である。友禄の明治の時代に、激しい廃仏毀釈をしたという特徴もある。

苗木城のふもとには、中津川市苗木遠山資料館があるが、↓

苗木遠山資料館

そのすぐ下には、苗木藩遠山家歴代藩主の廟所(お霊舎)があり、↓

苗木藩遠山家廟所(お霊舎)
苗木藩遠山家廟所 解説板


その近くには、家臣団の墓が広がっている。↓

苗木藩家臣団の墓 道路を挟んで反対側にも同じように家臣団の墓地が広がっていた

廃仏毀釈の折、藩主の遠山氏や家臣団の菩提寺だった雲林寺(臨済宗妙心寺派)が廃寺になって、過去帳も流出したが、いまはその過去帳が苗木遠山資料館に戻っているそうで、この過去帳と残された家臣団の墓地の墓碑を合わせてみていくと、かなり正確に家臣団の過去が辿れるらしい。廃仏毀釈の思いがけない副産物である。ちなみに、この辺りは、その後もお寺が戻ることはなく、家の宗教が神道というのが一般的らしい。

 さて、ここの資料館の調査員の千早氏が、この墓地にあった気になる古い不明の墓を調べてみたところ、肥後の侍の墓だったという。そこで、資料館に伝わる くだんの過去帳と照らし合わせて照会したところ、この肥後の侍は、近藤とか伊地知とかいう兄弟2人(傳六16歳と三郎[新之丞]14歳)で、彼らは、清正死後の、肥後加藤家のお家騒動のごたごた(牛方馬方騒動)で、1618年に、この苗木藩に流されて、苗木藩初代友政の預りになっていたことがわかったらしい。ちなみに彼らは、美作派(牛方派)で、美作派(牛方派)は、大阪の陣の時に豊臣方に内通したと言われたらしい。しかし、そんな彼らも、苗木に流された44年後には、苗木遠山家中の家来になっていたのだという。

 ところで、彼らがなぜこの苗木に流されたのかはよくわからないのだが、苗木藩初代藩主遠山友政と熊本の八代は縁がないわけではないらしい。というのも、八代に遠山家があって、その遠山家は、友政の弟(友政の父・友忠の弟である可能性もあるらしい)である友実の家系で、友実が清正に従って肥後入りしたところから、はじまったという。この八代の遠山氏は、苗木の家系図では確認できないらしいが、2代から野津姓を名乗り、8代から遠山姓に戻って、安政年間(1855~57年)に遠山弥二兵衛が山鹿郡の総庄屋兼代官となって溜池築造工事を遂行し、それによって水飢饉から救われた人々が遠山神社を祀ったという。伊地知(近藤)兄弟が、苗木に送られたのは、そんな縁も関係していたのだろうか???

 ところで、個人的に気になっているのは、近藤すなわち伊地知兄弟である。というのも、肥後南部には、小西行長に付いて肥後南部に入った大阪河内のキリシタン・伊地智(伊地知)文太夫という存在がいたからである。伊地智(伊地知)文太夫は、肥後南部に入って早々に亡くなってしまったが、行長や伊地智(伊地知)文太夫が肥後南部に入った1588年のイエズス会の有馬神学校(セミナリヨ)に、Yjichi姓の少年(MantiusとSimon、この時、ともに16歳)が二人とYzichi姓の少年(Thomas、10歳)が一人いたことがわかっている。当時の神学校には、7~17歳の武士・貴族の子弟しか入れなかったから、これらの少年は、伊地智(伊地知)文太夫の係累の可能性が高い。(ただし、まだ確証は見つけていない。)1607年の在日イエズス会士名簿には、Izhichi Thomasという名前が見えて、1588年の時点で10歳だった少年だけは、イエズス会に残っていたことがわかっている。あとの二人は、その後どうなったのかわからない。途中で、イエズス会を抜けたり、あるいはキリシタンをやめた可能性もなくはない。(神学校に入った人でもそういう人は少なくなかった。)ところで、上述の苗木遠山資料館の千早氏によると、伊地知あるいは伊知地姓は鹿児島にあるらしい。そこで思い出すのが、小西末郷のことである。末郷は、行長の重臣で、行長時代の八代城代だったが、行長亡き後、清正に攻められ鹿児島に逃げていた。この小西末郷に従って、鹿児島に逃れた伊地知姓がいたのだろうか???(この記事を書いた後、ふらりと入った小石川の印刷博物館の展示で、室町~戦国時代に伊地知重貞という薩摩の島津家に仕えた人物がいたことを知った。伊地知姓は、大坂の伊地知文太夫が肥後南部に入る以前から、鹿児島に存在したようである。)

(伊地智(伊地知)文太夫や小西末郷、小西行長時代の肥後南部ついては、こちらをご覧下さい。)↓

しかし、キリシタン方面の資料からは、これ以上、自分では追求できない気がしている。そこで、近いうちに、次は熊本方面の資料によって、この辺りのことをもう少し考察してみたいと思う。それによって、清正の死後、加藤家の家臣団が分裂し、牛方馬方騒動が起こっていく流れも、もう少し詳しくわかるようになるだろう。伊地知(近藤)家のことも、もう少しわかりそうだ。
いましばらくお付き合いいただければ幸甚です。

 さて、苗木藩に流された伊地知(近藤)兄弟には、兄がいたようである。彼らのその後にご興味がある方は、宜しければ、こちらをご覧ください。意外と長生きされたようです。↓

(2022年11月1日 修正)
(2022年11月8日 補記)

続きはこちら。↓↓↓


(参考資料
①『遠山友政公記 苗木藩の初代藩主』千早保之著、苗木城跡・苗木遠山資料館友の会、2010年
②『墓からみた歴史「廃仏毀釈」以前』千早保之著、苗木遠山資料館
③『戦国河内キリシタンの世界』神田宏大、大石一久、小林義孝、摂河泉地域文化研究所編、批評社、2016年
④「キリシタン時代のリベラルアーツ教育」山田耕太著、インターネット上にて論文閲覧可能)

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