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続・苗木城跡と家臣団の墓と肥後の侍~加藤清正家のお家騒動と伊地知兄弟~

 前回の続きです。

前回のあらすじ:昨今、天空の城などと呼ばれて人気のある岐阜県中津川市の苗木城跡のふもとには、苗木藩の古い家臣団の墓地があり、そこから肥後の侍の墓が見つかった。地元の資料館の調査員の方が、その墓碑と資料館に伝わる過去帳とを照らし合わせて調べてみたところ、この肥後の侍は、肥後加藤清正家のお家騒動(牛方馬方騒動)で牛方であったがゆえに苗木藩のお預かりとなった伊地知(近藤)兄弟だということがわかった。この伊地知という名字から、伊地知(近藤)兄弟は、小西行長に付いて肥後南部に入った大阪河内のキリシタンである伊地知(伊地智)文太夫の係累ではないかとふと思いつき(というのも、小西行長亡き後の小西領を治めたのが清正だったからである)、キリシタン側の資料からいくらか考察したが、よくわからなかった。
(現代の方にわかりやすいように、ここでは、あえて「坂」ではなく「阪」の字を使って「大阪河内」と表現しました。)
(前回の記事は、こちら。↓鹿児島の伊地知姓について少し追記しました。)

 話をわかりやすくするために、今回の記事の登場人物たちを、はじめに、まとめてみました。記事がよくわからなかったら、ご参照ください。↓

1, 肥後加藤家
① 初代清正:正妻・清浄院(家康養女、水野勝成妹)     
       側室・正応院(玉目丹波娘、忠廣生母)
② 二代忠廣:生母は、正応院     
       正室・琴姫(秀忠養女、蒲生秀行娘)     
       側室・法乗院(二代目玉目丹波娘)     
       側室・しげ(二代目玉目丹波娘)

2,清正死後の肥後藩五家老(1611年~)
①加藤美作[牛方](清正いとこ婿)
②加藤右馬允(正方)[馬方]
③加藤與左衛門[馬方]
④下川又左衛門[馬方]
⑤並河金右衛門[馬方]
幕府は七人を家老にしようとしたが、和田備中[牛方]、飯田角兵衛[馬方]が辞退したため、五家老に

3, 牛方馬方騒動の人間関係
① 牛方:加藤美作、丹後親子、二代目玉目丹波、和田備中など→負け
② 馬方:加藤右馬允(正方)、飯田角兵衛など

4, 牛方馬方騒動で他家にお預りになった牛方の人々の一部と、そのお預かり先(1618年)
①加藤美作→越後村上藩・堀直寄へ
②加藤丹後(美作子)→信濃川中島藩・酒井忠勝へ
③加藤信濃(丹後子)→三河刈谷藩・水野忠清へ
④加藤助之丞(丹後子)→同上
⑤加藤太郎作(丹後弟)→大和郡山藩・水野勝成へ
⑥加藤鶴千代(太郎作子)→同上
⑦加藤出雲(丹後子)→同上
⑧伊地知(近藤)河内(美作一類の娘の子)→三河伊保藩・丹羽氏信へ
⑨伊地知(近藤)某(河内弟)→同上
⑩伊地知(近藤)傳六(河内弟)→苗木藩・遠山友政へ
⑪伊地知三郎(河内弟)→同上
⑫(二代目)玉目丹波→奥州会津藩・蒲生忠郷へ
⑬玉目秀之助(丹波子)→同上
⑭和田備中→美濃岩村藩・松平乗寿へ

(太字は、重要人物、重要項目)

(筆者作成)

 さて、今回は、前回の予告の通り、熊本側の資料からこの牛方馬方騒動について学び、伊地知(近藤)兄弟とは何者かを考察していきたい。参考にするのは、福田正秀著『加藤清正と忠廣 肥後加藤家改易の研究』(熊本城顕彰会、ブイツーソリューション、2019年)である。この福田氏は、まえがきによると、2007年に水野勝之氏と共著で『加藤清正「妻子」の研究』を上梓され、これまで明確でなかった加藤清正の正室・側室、それぞれが産んだ子供たちについて、その出自から生涯までを徹底的に探究し、正確な妻子系図を作成されたという。今回、参考にする氏による『加藤清正と忠廣 肥後加藤家改易の研究』は、清正の時代→忠廣の時代(牛方馬方騒動、改易その他)→改易後が書かれていて、今回の興味関心に合致する。では、早速見ていこう。

 まず『加藤清正と忠廣 肥後加藤家改易の研究』を一通り読んで感じたのは、清正死後から牛方馬方騒動までの肥後加藤家の道のりとは、肥後加藤家の家中から、清正の親族が排除されていく過程であり、牛方馬方騒動は、その一つの結末だったのではないかということである。ゆっくり見ていこう。

 朝鮮から帰国した清正は、家康の養女(清淨院)と結婚し、家康の婿となり、肥後加藤家を盤石にしつつあったが、清正が亡くなった直後(1611年)に、幕府に提出された肥後加藤の家臣団のリストによれば、清正時代、熊本には、熊本城の他に、七つの支城があり、そのうちの五つは、以下のように、清正の親族が城代を務めていたという。

①筑後境 南関城代 加藤美作(清正いとこ婿)
②豊後境 阿蘇内牧城代 加藤清左衛門(のち右馬允=正方)
③日向境 矢部城代 加藤萬兵衛(清正又いとこ)
④薩摩境 佐敷城代 加藤與左衛門
⑤薩摩境 水俣城代 中村将監(清正いとこ)
⑥宇土城代 中川太郎平(清正又いとこ)
⑦八代城在番 中川寿林(清正いとこ)

のちに牛方の旗頭となる加藤美作は、清正のいとこ婿で、馬方の旗頭になる加藤右馬允(正方)は清正の親族ではなかったようだ。

 さて、幼い忠廣が清正の後を継ぐことは、家臣たちの必死の働きもあって、幕府から許されたが、水俣、宇土、矢部の三カ所の城を破却し、諸侍は熊本に移ることが命じられた。また、八代城の城代には加藤右馬允(正方)が、右馬允のいた内牧城の城代には加藤萬兵衛(清正又いとこ)が移された。このとき、清正の政治外交顧問であり、のちに牛方馬方騒動のきっかけとなった下津棒庵には、新しく千石与えられ、棒庵の知行は二千石となった。
清正の家中には家老がいなかったが、清正死後、奏者番(将軍取次役)の水野忠清(清淨院実兄)により、加藤美作(清正いとこ婿)[牛方]、加藤清左衛門(のち右馬允=正方)[馬方]、加藤與左衛門[馬方]、下川又左衛門[馬方]、並河金右衛門(のち志摩守)[馬方]、和田勝兵衛(のち備中)[牛方]、飯田角兵衛[馬方]の七人が家老として国政にあたるようにとの将軍の内意が伝えられたが、和田と飯田は固辞したため、他の五人が家老となり、以後、肥後加藤家はこの五家老による合議制によって執政されていくようになる。この家老のうち、清正の親族は、美作だけである。(以後の話をわかりやすくするために、この家老たちが、牛方馬方騒動のときにどちらの立場だったか[ ]内に示しておいた。)美作[牛方]は、この頃、南関城代を息子に引き継いだようで、新しく三千石与えられ、熊本に移動したようだ。

 ちなみに、このとき、破却を命じられた水俣、宇土、矢部のうち、宇土は、小西行長時代の肥後南部の中心地で、矢部は、行長時代、やはり伊地知文太夫のように、行長とともに肥後南部に入った河内の有力キリシタン・結城弥平次が城代を務めていた。↓

弥平次は、行長没後、肥後を離れ、1602年から肥前有馬氏に仕えたけれども、清正の時代になって、弥平次と共に肥後を離れた行長の遺臣もいれば、キリシタンをやめた、あるいはそもそもキリシタンでなかった行長の元家臣は清正時代の矢部に残っていた可能性もあるだろうし、それは、宇土も同じであろう。そうした人々のうち、この機に熊本に入った人たちもいたかもしれない。そして、このとき、熊本に移動したらしい美作らと知り合った可能性もあるだろう。

 1614年、大坂冬の陣のときには、肥後から大坂方へ兵糧など支援している者がいるという噂が幕府に流れて、調査が入り、結果、加藤美作と忠廣の伯父である玉目丹波に疑いがかかり、美作の役儀が解かれ、息子の加藤丹後の南関城へ移されるなどした。忠廣は、秀忠の養女琴姫とすでに婚姻して、江戸の屋敷で新婚生活を送っていたが、夏の陣の直前に、琴姫が肥後に下向となり、結局、肥後加藤家は、冬の陣にも夏の陣にも出陣しないで終わった。

 1615年の一国一城令では、八代以外の城が棄却され、これによって、美作の跡を継いだ加藤丹後、加藤萬兵衛(清正又いとこ)、加藤與左衛門の拠点が失われ、八代城を預かる加藤右馬允(正方)が、加藤家中の中心となり、加藤美作・丹後親子の権威は著しく衰えた。以後、美作派は、忠廣のおじ・(二代目)玉目丹波を自派に抱き込み、牛方馬方騒動へとつながっていく。(追記しておくと、忠廣の公式の母親は、家康の養女である清淨院であるが、生母は玉目丹波の娘・正応院であった。)

 さて、1616年に家康が亡くなった直後には、すでに肥後加藤家中が二分していることは、諸家の知るところだったようであるが、牛方馬方騒動のはじまりは、1617年、下津棒案が、肥後加藤家中が内紛だと、幕府に訴えたことであった。内容は、美作親子[牛方]が、他の家老たちと協力しないとか、美作親子と玉目丹波が私利私欲に走っているとか、美作親子が大坂の陣のときに豊臣方に心を寄せているとか云々。これに対して、美作は、そもそも棒案の仕事ぶりがでたらめであることや、棒案の子の身勝手な法度違反を自分が叱ったこと、また[馬方]こそ、忠廣が幼少で何もわからないのをいいことに、忠廣のお金を勝手に使ったり、年寄りの地位を使って私利私欲で欲しいままにしようとしているとか、米の一部を着服しているなどと反論した。それで、一時、美作派[牛方]に有利な展開になったようだ。しかし、最終決着として、将軍秀忠の御前で審問されることとなり、大坂の役のときの豊臣方への支援の行いを否定できず、結局、美作派[牛方]が負けた。負けた美作派[牛方]の処分は、諸家御預け26人、切腹7人、暇出し4人の計37人となった。牛方の旗頭であった加藤美作は越後村上の、美作の息子・丹後は信濃川上島の、玉目丹波とその息子は奥州会津のお預かりとなった。忠廣は、生母が玉目氏だったので、玉目氏[牛方]支持だったが、「年少」ゆえ、不問とされた。この後、忠廣は、おじの(二代目)玉目丹波の長女(法乗院)と三女しげを側室とし、それが、のちの肥後加藤家の改易へとつながった。というのも、さきほど書いたように、忠廣の正妻は秀忠の養女・琴姫であったから、玉目氏出身の側室を寵愛することは、将軍家を蔑ろにすることにつながったからだ。(ちなみに(二代目)玉目丹波の次女は、馬方の旗頭・加藤右馬允(正方)の養子・加藤佐内のもとに嫁いでいる。)玉目丹波親子は、奥州会津の蒲生忠郷のお預かりとなったが、ここは忠廣の正室琴姫(秀忠養女)の実家であった(琴姫は、もともとは蒲生秀行の娘)。福田氏は、ここに忠廣のおじである玉目氏への幕府の配慮があるのではないかと書いておられる。

 さて、苗木藩に墓が残る伊地知(近藤)兄弟は、このとき(1618年)苗木藩にお預かりになったのであるが、福田氏は以下のように興味深いことを書いている。曰く「牛方の旗頭だった加藤美作・丹後の一類は、子・孫、娘の子(伊地知)まで含め十一人、処分者の三分の一近くを占めていた。」これによって、加藤家中から、清正の親族であった美作一族が排除されたことがわかるが、もう一つ気になるのは「娘の子(伊地知)」という表現である。この書き方だと、美作の娘なのか丹後の娘なのか、あるいは一類の娘なのかよくわからないのだが、とにかく美作・丹後一類の娘の子が「伊地知」というらしい。ここで、牛方馬方騒動で処分を受けた人々のリストをチェックすると、伊地知姓は四人いて、その四人とは、苗木のお預かりとなった伊地知(近藤)兄弟二人と、三河伊保(現豊田市)のお預かりとなった伊地知河内とその弟の伊地知某である。苗木遠山資料館の千早氏によれば、この三河伊保の伊地知河内兄弟と苗木の伊地知兄弟は、兄弟だということが明らかになっていて、このリストでも三河伊保に流された伊地知某と苗木に流された伊地知傳六、伊地知三郎の三人は(河内弟)と書かれている。では一体、長男の伊地知河内(近藤作右衛門)以下四兄弟は、誰の子なのだろう?さらに、このとき処分を受けた人々のリストを精査してみると、(丹後子)とか(丹後弟)と書かれている人たちが存在する。となると、「娘の子(伊地知)」である伊地知四兄弟は、丹後ではなく、美作の娘の子、すなわち美作の孫、丹後の妹の子ということになるのだろうか。ちなみに、このとき、美作は65歳、苗木に流された伊地知(近藤)兄弟は、14歳と16歳であり、三河伊保に流された伊地知河内兄弟は、苗木の伊地知兄弟より上の年齢であっただろう。ところで、なぜこの兄弟は、伊地知とも近藤とも呼ばれたのだろう。実は、福田氏によると「近藤」とは加藤美作の旧姓なのだという。美作が加藤姓になったのは、清正について肥後に入国したときらしい。となると、伊地知(近藤)兄弟の「近藤」とは、美作の筋を指しているのかもしれない。となると、三河伊保や苗木にお預けになった伊地知四兄弟とは、加藤美作の娘の子で、彼らの父が伊地知姓だったということになるのかもしれない。しかし、わかったのは、ここまでだ。ここまで見てきて、よくわからないのは、伊地知(近藤)兄弟は加藤美作・丹後一類の「娘の子」らしいけれども、父親が誰か全く書かれていないことである。そもそも、女性は嫁いで婚家に入るはずなのに、それが書かれていないのは、「娘」の嫁ぎ先が肥後国内かつ、「娘」より格下の家だったのだろうか??父親が誰だかわからないし、一見すると、父親は処分を受けていないように見えるのに、息子たちは処分を受けているので、「娘」がこの頃には離縁していて、美作家が子どもたちを引き取っていたのだろうか??あるいは、この頃にはすでに、父すなわち「娘」の夫は他界していたのだろうか??ますます謎が増えてしまった。結局、苗木の伊地知兄弟が、大阪河内のキリシタンの伊地知文太夫の係累かどうかは、わからなかった。苗木の伊地知兄弟の兄が「河内」と呼ばれているのが、気になるといえば気になるのだが、それだけで伊地智文太夫の係累だと考えるのは、早計にすぎるだろう。

 ところで、思いがけず、大阪河内のキリシタン伊地知文太夫の係累が、肥後加藤家の別の重臣と婚姻関係を結んでいたことがわかった。その重臣とは、飯田角兵衛[馬方]である。飯田角兵衛は、清正死後、幼少の忠廣が跡継ぎになれるよう許しを求めるため、駿府の家康のもとに、和田備中[牛方]と共に派遣された人物であり、その後、家老の一人にも推薦されたが、やはり和田と共に家老になることを固辞した人物である。この辺りのことを調べているうちに、大阪河内のキリシタン伊地知文太夫の子孫のこともいくらかわかってきた。次回は、この辺りについて、書いていきたい。そうすることで、前回の記事に書いたイエズス会の記録に残るYjichiあるいは、Yzichiと書かれた三人の少年の正体もいくらか明らかになりそうだ。また、家康の養女で清正の正妻であった清淨院や、清淨院の実兄で清正亡き後の肥後加藤家に家老の人事を伝えた水野忠清の係累が、思いがけず伊地知文太夫家と縁があることや、筑前福岡の黒田家の名前も見ることになるだろう。その上で、もう一度、可能ならば、牛方馬方騒動とは何だったのか、また三河伊保や苗木のお預かりになった伊地知(近藤)兄弟の伊地知とは何なのか、考え直してみたい。


予想以上に長くなってきました。次回で終われればいいなぁと思っていますが、次回を書くのにしばらく時間がかかりそうです。気長に、引き続きお付き合いいただければ、幸甚です。

(2022年11月22日 追記)
(2023年1月25日 修正)

続きはこちら。↓

(参考資料
①『加藤清正と忠廣 肥後加藤家改易の研究』福田正秀著、熊本城顕彰会、ブイツーソリューション、2019年
②『大坂の陣 豊臣方人物事典』柏木輝久著、宮帯出版社、2018年
③『遠山友政公記 苗木藩の初代藩主』千早保之著、苗木城跡・苗木遠山資料館友の会、2010年
④『墓からみた歴史「廃仏毀釈」以前』千早保之著、苗木遠山資料館)





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