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紫がたり 令和源氏物語 第二百七十九話 真木柱(十)

 真木柱(十)
 
近頃右大将はさらに六条院に入り浸るようになり、自邸に戻っても北の方を顧みることはありませんでした。
女房たちもあの北の方のギラギラとした目に血を滴らせた顔を思い浮かべると仕方なきこと、と諦めるものの、普段おとなしい北の方を見るとやはり気の毒で右大将の無情さを嘆かずにはいられません。
噂というものが悪いことばかりが先に広まってしまうのは、人の悪意や妬みが世のそこかしこと潜んでいる証なのでしょうか。
北の方の父君・式部卿宮の耳には益々娘の不憫な様子が伝えられておりました。
折しも邸の修繕が終わり、真新しい家具が次々と運び込まれている時で、例の玉鬘姫を邸に迎えるのであろうと父宮は面白くありません。
手紙を送るだけでは娘も決心がつかぬらしいことから、とうとうご自身が迎えにおいでになったのです。
「姫よ、ここにはもうあなたの居場所は無いではありませんか。私が生きている間はけして惨めな思いはさせませんので、共に生まれ育った邸に帰りましょう」
「しかし、父上・・・」
「右大将はどうしたのだ?」
「ここのところお邸には戻られておりません」
歯切れの悪い女房の答えに式部卿宮はここまで情けない境遇を強いられていたのかとまた娘が可哀そうになりました。
「今宵はこちらに泊まるとしましょう。明日出立しような」
父宮の仰ることももっともなこと、と北の方は懐かしい生まれた邸に戻る決意をしました。
そうなると子供たちはどうするべきか悩むところです。
『落窪物語』や『住吉物語』などにあるように、世によくできた継母というのは聞いた試しもなく、子供たちを残して行ったところで幸せになれるとは到底考えられない北の方です。
男児は右大将の子ということであればないがしろにされることもありませんが、姫は継母が世話をしなければ幸せな結婚なぞ望めないでしょう。
北の方は子供たちも連れて邸を去ろうと決めたのでした。

翌日の陽も高くなった頃、北の方は三人の子供たちを呼び寄せました。
「わたくしはこの邸を出ることになりました。ですが、あなたたちを置いてはいけません。新しいお母さまがあなたたちを大切にしてくれるかどうかも心配ですので、一緒にお祖父さまのお邸に参りましょう」
その意味するところをちゃんと理解できたのは小さい姫だけでしょう。
太郎君はすぐにまた戻って来られると考え、次郎君に至ってはただのお出かけと嬉しくてはしゃいでおります。
姫は父君が大好きでしたので、このようにもう会えなくなるのは耐えられず、大粒の涙をこぼしました。
「お母さま、わたくしは一目父上にお会いしとうございます。せめてお別れの挨拶だけでもさせてください」
「姫の気持ちはわかりますが、お父上は戻ってこられないでしょう」
「それでは少しだけ待ってください。手紙を書きますわ。いいでしょ?お母さま」
小さい姫はなんとか父君にお会いしたいと部屋へ戻りじっと待ち続けました。
しかし右大将が帰ってくる気配はありません。
そろそろ陽が暮れる頃合いで、とうとう姫も諦めざるをえませんでした。
桧皮紙に歌をしたため、小さく結ぶと慣れ親しんだ柱の隙間にそっと差し込みました。
 
今はとて宿離れぬとも馴れきつる
     真木(檜)の柱は我を忘るな
(今これまでと慣れ親しんだ邸を出ていく私ですが、新たな主人がきても真木柱には私のことを覚えていてほしい)
 
その歌を繰り返した姫に北の方は詠みました。
 
馴れきとは思ひ出づとも何により
      立ちとまるべき真木の柱ぞ
(たとえ真木柱があなたが親しんだことを思い出しても、主人の変わるこの邸に私達は残るべきではないのですよ)
 
北の方は涙を流し、女房たちもみな泣いておりました。
式部卿宮のお邸に今仕えている北の方付きの女房をすべて連れて行くわけにもゆかず、実家に帰るなどしてみな散り散りになるのです。
別れを惜しみながら、北の方は牛車に乗り込み長年親しんだ邸を後にしたのでした。
 
式部卿宮のお邸では北の方の母君も可哀そうな娘を待っておりました。
この方は紫の上の母君をいびった意地の悪い人ですが、自分がした仕打ちなどはとうに忘れて、ひたすら源氏と紫の上を恨んでいるのです。
温かく娘を迎えるよりもつい恨みの言葉しか出ないのは品性の下賤さゆえでしょうか。
「源氏が手をつけた娘の婿に右大将を迎えるなんて、いったいどういう了見なんでしょう」
そう由もないことを口汚く罵るのが式部卿宮には辛く、こういろいろとうまくゆかぬのも前世の因縁としか思われぬ、と胸を痛められるのでした。

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