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紫がたり 令和源氏物語 第四百二十七話 御法(五)

 御法(五)
 
お主上が許された宿下がりの期日が迫り、季節は秋になろうとしておりました。
涼しい風が吹きはじめ、過ごしやすい時期にはなりましたが、朝夕の冷え込みは弱った紫の上の体にはこたえるようです。
しかし中宮が内裏にお戻りになるのをこれ以上留めることはできませんでしょう。
心裡ではいつまでも姫を側にと願わずにはいられない母心がありますが、十分に尽くしてくれた愛娘を送り出すのも母の務めというものです。
紫の上は娘にしっかりと向き合うと、諭すように言いました。
「姫、お主上がお待ちでいらっしゃるでしょう。国母の務めを果たさなくてはなりませんよ。わたくしの心配はいりませんから早く内裏へお戻りなさい」
「まだ時間はありますからしばしゆっくり過ごしましょう。お母さま」
中宮は脇息にもたれ掛る母の姿をしばし目に焼き付けようとご覧になる。
以前は春の盛りのように艶麗であった御姿は変わらずに美しいのですが、清らかに痩せられて菩薩のような神々しさを放っているのが、まるで母が人ではないものに生まれ変わるようで中宮は悲しく思召されます。
それはとりもなおさずこの母の人としての生が終わろうというのを示しているからでしょうか。
 
紫の上はここのところ昔のことなどを思い出し、自分の人生を振り返るようにさまざまな記憶が行き過ぎるのを不思議な感覚でみつめておりました。
心の中で喜び、悲しみ、歌い、踊り、さまざまなものを愛しました。
辛く思うことなどもありましたが、もはや精一杯生き切ったという満足感で満たされているのです。
 
庭の萩が風に揺られてそよぐのを見て紫の上は誰にともなく呟きました。
「人の世というものはあっという間で、あの萩に宿る露のように儚いものですわね。ほんの少しの風でも散ってゆくのです。あるがままを受け入れましょう。あの散る露もそのありように心動かされるものがあることで存在が認められるのです。わたくしもそのようにありたいですわ」
まるで御仏の言葉を紡いでいるような紫の上の言い様に、この人はもはや人の世を見ておらぬ、と戦慄する源氏なのです。
無常を忍びがたく紫の上に言いました。
「そうさな、まことに儚いものだ。そんな世であるからこそ私はあなたと共に死ぬることができればそれ以上の望みはもうないよ」
それはまるで紫の上をこの世につなぎとめるかの如く。
 
二人は静かに笑みを交わしました。
愛情を通わせる夫婦に親を思う優しい娘、なんと人の姿の美しいことか。
側に控える女房たちも深く胸をうたれ、涙をこぼさずにはいられませんが、人の命を留めることはできないもので、無情にもついにその時はやってきたのでした。
紫の上は全身の力が抜けていくように体を支えられなくなりました。
「几帳を、中宮さまに見苦しい姿は見せられません」
「お母さま、何をおっしゃるの?しっかりなさって」
そうして握りしめた手はひんやりと力もありません。
横たわった紫の上はうっすらと笑みを浮かべました。
「わたくしは幸せでございます。あなたのような娘をもてたのですから」
源氏も紫の上の異常に側に寄り、手を取りました。
「上、気をしっかり持つのだよ」
すでに紫の上には言葉を発する力は残っておりませんでしたが、その眼差しは慈愛に満ちた穏やかなものでした。
そうして光は徐々に失われてゆき、瞳はゆっくりと閉じられました。
 
紫の上、逝去。
四十三歳の夏の終わりの頃でした。

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