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令和源氏物語 宇治の恋華 第五十二話

 第五十二話 恋車(十四)
 
大君とはどのように再会するかといろいろと考えてきたことも何処へやら、薫は適当な女房を取次に立てるよう指示して御簾を隔て、間を置いて季節の挨拶をして無沙汰を詫びました。
薫としては今直接大君の声を聞けば自制できなくなるのを恐れていたのですが、大君にしてみれば薫が距離を置き始めたのかと気が気ではありません。
すぐさまおもてなしにと整えた膳を運ばせて寛いでいただこうと取り繕います。
必死に追われると逃げ、踵を返されると物足りない、そんな矛盾した女心の不思議さに大君自身は気づかないのです。
「本日こちらに参りましたのは、亡き八の宮さまの一周忌の差配の為でございます。陽が傾く前には山の阿闍梨をお尋ねしようと思っておりますので、ご酒は控えさせていただきます」
薫があくまで生真面目に畏まるのを大君は寂しく感じました。
「お心遣いありがとうございます」
御簾の側まで寄りほのかに聞かせる声に愛しさを堪えられませんが、ここでまた言い寄っては前回のように大君を困惑させるだけでしょう。
「亡き八の宮さまへのせめてもの恩返しでございますれば」
薫はそれだけ言うと御前を辞去しました。
大君の本当の処を知りたい。
薫はそう強く願いましたが、訊ねて素直に御心を表すような女人でないことはよくわかっております。
そこでいつものように弁の御許を近くに呼びました。
「弁、久しくこちらへ足を向けなかったが、元気にしていたかね?」
「おかげさまで恙なく日々過ごしております」
「今日は聞いてもらいたい話があるのだよ」
「わたくしでよろしければなんなりと」
「うむ、お前は亡き八の宮さまに親しくお仕えしていたと聞いている。私は宮さまがご存命の折に密かに姫君たちを託されたのだ。宮は私が承諾すると安堵なさった様子で姫君たちの演奏を聞かせてくれたのだよ」
「はい、わたくしも存じております。宮さまは薫さまがご承諾下さったと涙を流して喜んでいらっしゃいました」
「弁がそのことを知っていたのであれば包み隠さず尋ねたい。もしや大君には誰か他に意中の相手がいるのかね?」
「まぁ、そのようなこと考えも致しませんでしたわ」
「聞き及んでいるかもしれないが、私は恋愛の方面はからきしでね。自分の出生の罪深さもあって早くに世を捨てたいという願望があったせいであろうか、この世にほだしとなるような女人も作るまいと生きてきた。それが大君には心惹かれてならないのだ。いつしかあの方を妻にと願うようになり、幸い八の宮さまも結婚を許して下さった。ところが肝心の大君は私のことを嫌っておいでのようだから他に想う御方がいるのかと心を痛めているのだ。私が宮家の姫を娶ろうというのは分不相応とお考えなのだろうか?」
弁の御許は薫が真剣に大君を娶る心積りなのを嬉しく感じましたが、大君の複雑な乙女心を薫が理解できるかと思案します。
世慣れた女房ならばここで薫を焚きつけて縁談をまとめてしまうところですが、弁は心優しい善良な性質で互いに愛し合って結婚してもらいたいと願うもので、軽率なことは口にしません。
「大君さまは人とは違った宿世をお持ちなのでしょうか、結婚をまったくご自分のことと考えておられぬようです。ですが御身をお慕いしているとわたくしは思います」
「そうか」
「宮家の矜持といいましても落ちぶれた宮家の誇りなど生活の困窮を前にしては如何ばかりのものでしょう。薫さまのご身分が不相応などとけしてそのようなことはございません。大君さまがもっとも信頼していらっしゃるのはあなたさまでございますよ」
「かといって私と共に生きてくださるという考えはお持ちではないのだね」
薫が寂しそうに笑うのを切なく感じる弁の御許です。
「大君さまはむしろ中君さまを薫さまに娶っていただきたいという御意向でございます」
この一言は薫を大きく打ちのめしました。
「中君を私に?」
「はい。薫さまを心から信頼していればこそ、という想いなのでしょう」
「私は親友の匂宮を裏切ることはない。それに今さら他の女人を愛せるような心ならばここまで大君を思い詰めたりなぞしまいよ」
愛する大君に簡単に心を変える男と見縊られ、傷ついた薫の笑い顔は泣いているように弁には思われました。

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