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令和源氏物語 宇治の恋華 第四十二話

 第四十二話 恋車(四)
 
薫はなかなか宇治へ赴くことが出来ないでおりました。
それはもちろん公務の多忙なこともありましたが、大君に強く惹かれる己を自制できなくなるのが恐ろしかったからです。
しかし会わぬからといって想いが消えてしまうわけではありません。
むしろ会えないほどに想いは募り、薫は大君への強い愛を自覚したのです。
薫は大君を愛しておりますが、大君の心はわかりません。
手紙だけは定期的に送り、あちらからも丁寧な文は返ってきますが、嗜み深い大君は気持ちをそこに表そうとはしないのです。
なんとつれない御方であるか、と深い溜息をつくほどに宇治へ向かう足を留めているのでした。
しかしながら年も押し迫り、新年を迎えればまたぞろ宮中行事で身が空かなくなると感じた薫はたまりかねて宇治へと赴きました。
 
思えば冬に宇治を訪れるのは初めてのことでした。
いつもの山道が白銀に覆われる様は清浄でありながら、まるで生命を感じさせない無機質さで、このような山里に住む姫君たちはどれほど心細くあるかと察せられます。
いつでも後悔に苛まれる君ではありますが、自分がくよくよと悩んでいたことで長く姫君たちを放っておいたのを申し訳なく思いました。
雪に閉ざされた山荘では山樵(やまがつ)でさえも足が遠のいているというのに、ましてや中納言という身分高い貴公子が雪を踏み分けて訪れたのをたいそう喜びました。
御座所をしつらえて、近くに炭桶を寄せた鄭重なおもてなしで、大君も自らお相手をなさろうと御簾の向こうに控えていらっしゃいます。
薫はまず長くの無沙汰を詫びました。
「大君さま、多忙を理由に長くこちらへ足を向けませんでした御無礼を御許し下さい」
妹背(夫婦のこと)ではないのですからこうした詫びなど不要なのですが、薫としてはこのうらぶれた山荘をそのままにしたことを悔やんでいるのです。
「薫さま、そのようなことをおっしゃらないでくださいまし。人を多くよこしてくださったり、わたくしたちを気遣うお手紙をありがたく思っておりましたのよ」
「私は冬に宇治を訪れたのは初めてでございますが、このように物寂しいとは思いもよりませんでした。さぞかし心細く感じられたことでございましょう。何より父君を亡くされた御心を推し量る配慮に欠けておりました」
御簾の向こうで大君はほんのりと微笑まれたようです。
そんな気配を感じて薫は以前よりもずっと距離が近くなったことを知りました。
それだけで逸る恋心は抑えかね、どうにか想いを告げたいものだと気持ちは先走るのです。
薫は先に行われた相撲の節会の様子など姫君たちには珍しかろうと思われる話題を口の端に上らせ、さらに打ち解けていただこうと務めますが、心裡では想いを告げようという自身を必死で抑えているのでした。
 
今恋心を打ち明けても大君は困惑されることであろう。
しかし好意を寄せてくれていることは間違いない。
 
それが弟のように思う親しみであるのか男としてみなしているものか、絶えず湧き上がる感情に薫はどうにも押し流されそうに堪えております。
 
そもそも大君は結婚をなさる意志をお持ちであるのか?
 
中君のことを尋ねるように本心を引き出せぬものか、と薫は匂宮のことを持ち出しました。
「ところで本日は伺いたいことがあるのです」
薫の態度が改まったのを大君はおや、と首を傾けました。
「先日来匂宮さまからこちらにお手紙が贈られていると聞きますが、御身は匂宮さまを如何に思召されますか?」
「はい、たしかにお文を頂いてはおりますが。季節の挨拶程度ですわ」
「匂宮さまは八の宮さまが生前姫君たちの後見として私を指名したことを妬んでおりまして、色よい返事がもらえぬのを私が邪魔をしていると考えられているようです」
「それはどういうことでしょうか?」
「失礼ながら匂宮さまには大君と中君とどちらが手紙のやりとりをなさっておられますか?」
大君は思わぬように吹いてきた風に困惑し、そっと詠みました。
 
 雪深き山のかけ橋君ならでは
   またふみ通ふ跡をみぬかな
(雪深い山の懸け橋には御身以外に踏み<=文>通ってくるものなどわたくしは存知ませんわ=わたくしは文を交わしてはおりません)
 
つくづく自分が匂宮の相手をしていなくてよかった、と感じるのは大君の乙女心でしょう。
薫は安堵したようにふわりと笑みました。
「そうかと思うておりました。匂宮さまは中君さまに想いを懸けておられるのです。中君さまは如何なのでしょう?」
「薫さまですから本当の処を申し上げさせていただきますわ。匂宮さまは移り気で数多の女人がおられると聞き及びます。わたくしどものように風流も知らずに山里に隠れ住んできた田舎者がどうして匂宮さまと縁を結ぶことなどできましょうか。雲居にある御方とではあまりに身分が違いすぎますわ」
やんわりとしたいらえの裡にも身分柄を弁えた隙のなさに薫は益々惹かれてゆく。
「私も忌憚なくお話をさせていただきましょう。匂宮さまとは幼い頃から共に育った仲でして、私は彼をよく知っております。尊いご身分にありますので結婚などもなかなか意志を通そうというのが難しい立場でございます。それに加えて魅力的な風貌に好もしい性格ですので女人達が放っておかないのは事実でございましょう。しかし宮は只一人の運命の相手を待ちわびておられるのです」
「それが中君だとでも仰るのでしょうか?」
「宮はそのように確信しておられるようですよ。いずれは京にお迎えしたいとまで思い詰めておられました」
その一言に傍らの若い女房たちはほうっと溜息をつきました。
薫は大君の返事を待たずに続けました。
「匂宮さまはそこまで思い詰めた女人を捨てるような情け知らずではありません。世間の噂というものは妬みなどが多分に含まれておりますもので、宮を浮薄と揶揄するのは逢うことも叶わなかった女房あたりが吹聴したものでございますよ」
大君は何とも答えることができずに沈黙が訪れました。
 
障子は雪明りでほんのりと明るく、山には雪がしんしんと降り続けておりました。

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