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紫がたり 令和源氏物語 第三百三十三話 若菜・上(二十七)

 若菜・上(二十七)
 
それは三月の頃、空はうららかに晴れて土の香が高く温かい日和でした。
すっかり春めいたのどけさに源氏が端近で庭を眺めていると、弟である兵部卿宮が六条院を訪れました。
「兄上、ご機嫌はいかがですか?」
「これは嬉しい訪れだ。身分が重くなるというのはこうも退屈なものかと嫌気がさしていたところだよ」
兵部卿宮とは仲が良いので、こうして気兼ねなく訪問してくれるのが嬉しい源氏の君です。
「陽気がよいのでしんみり楽というのもなにだね。そういえば夕霧や若い連中が来ていたから、小弓でも射させようか」
そう思案していると、側近くに控える者が大将は花散里の御方の夏の御殿にて蹴鞠に興じておられるようですと、奏上すると、源氏は公達たちをこちらの東面へ呼び寄せるよう命じました。
「蹴鞠とは懐かしい。あの鞠が思わぬところに飛ぶものだから、冠がとれないように必死になる姿がまた滑稽で面白いのだよ」
などと、源氏は面白がっております。
兵部卿宮は運動が苦手でいらして昔から見学専門でしたが、こうした日和にはうってつけであると微笑まれました。
明石の女御はすでに内裏へ戻られたので、こちらの庭向きの部屋は空いているのです。
その前庭に鞠壺(まりつぼ)がすでに据えられておりました。
鞠壺とは蹴鞠場のことですが、平坦な場所に設けられ、四隅には桜、柳、松、楓を植えます。それぞれの木々は高さが定められ、それより高く蹴ってはならず、鞠を落とさぬよう6~8人で蹴り合うのです。
 
桜の舞い散る中で若い貴公子達が鞠を蹴る姿は見応えのあるものでした。
なかでも太政大臣の子息、柏木衛門督、頭の弁、兵衛の佐、大夫の君は特に上手で、源氏は太政大臣とよく遊んだことを思い出しておりました。
「太政大臣は蹴鞠がうまくて、こればかりはかなわなかった。息子たちもしっかりその血を継いでいるらしいねぇ。見事な技だよ」
「たしかに太政大臣の足さばきは神業でしたねぇ」
兵部卿宮も楽しまれておられます。
若者たちは鞠に熱中し、冠がずれるのも気にしないで声をあげて白熱しているもので、そんな貴公子達の様子が気になり、西の端にある女三の宮の御座所では若い女房たちが御簾を隔てて覗いているのでした。
「みなさん、素敵な公達ですわねぇ」
「あら、あの方冠が取れそうですわ。うふふ」
などと、楽しげに好奇な目を向けて喜んでいるのです。
「少し一休みしようか」
そう夕霧が誘うと、柏木も乱れた髪を直しながら、すぐ側の桜の枝に手をかけました。
「今年の桜ももう終わりかな。たいそう散るのが惜しいねぇ」
そうして意中の女三の宮のおられる南西の面を眺めると、御簾の下から色とりどりの裾がこぼれているのが眩しく感じられます。
柏木は恋しい宮が自分の活躍を見てくれたかと胸が弾むようにどきどきとするのでした。
夕霧も何気なくそちらへ目を転じると、まぁ、これだけ人が集まっているというのにまた慎みもなく端近にいることよ、と呆れ果てるばかりです。
するとどうしたことでしょう。
御簾がするりと巻き上がったのです。
夕霧は、
「あっ」
と驚愕しました。
どうやら小さい唐猫の首に御簾の紐が巻きついたのを苦しがって逃れようとして御簾の一部が巻き上がってしまったようですが、女房たちは猫が苦しむのに大騒ぎで、中が丸見えなのに気付かないでいるのです。
なんとそこには女三の宮が呆然と佇んでいるではありませんか。
あきらかにお召し物などが他とは違うのでそれとわかるのです。
夕霧はその姿をしっかりと見てしまいました。
ということは、とりもなおさず宮に懸想している柏木も見てしまったというわけです。
柏木は思わず垣間見られた宮の姿に感激しておりました。
ほっそりとした姿が天女のように思われて、なんと美しい御方であろうかと目が洗われるようにぽうっと頬を赤らめました。
夕霧は女三の宮のその呆けたような姿に幻滅しました。
たしかに美しくはあるが、なんと幼稚で嗜みの無い、これが宮さまの振る舞いとは・・・、見かねた夕霧がわざとらしく咳払いすると、女三の宮は几帳の影へ姿を隠しました。
その驚いたような御顔もなんと幼く愚かしいものか、と夕霧は深い溜息をついたのでした。

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