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紫がたり 令和源氏物語 第三百三十四話 若菜・上(二十八)

 若菜・上(二十八)
 
「陽も暮れてきたのでそろそろこちらへおあがりなさい」
源氏は若者たちを饗応しようと邸内へ招きました。
蹴鞠をしたときは決まりのように椿餅というものが供されます。
これは現在の桜餅のようなもので椿の葉で餅が包んであるのですが、平安貴族はこれを軽食のような感覚で食べたのです。
その他にも果物や肴が出され、酒も運ばれてきました。
若者たちがわいわいと空腹を満たしているなか、柏木だけはじっとおし黙ったまま盃を片手にぼうっと何か考え込んでいるようです。
それを見た夕霧はきっと女三の宮のことを想っているに違いないと察しがつきました。
あの嗜みのない有様をなんと見たであろうかと確かめたいところですが、この場にては口にすることはできません。
あの宮の様子では父が軽んじるのも無理はない、と夕霧は考えました。
幼さがあるというのは一見可愛らしい印象ですが、ともすると今回のような失態を犯すわけで、人妻が夫以外の者に顔を見られるなど言語道断、危うく心配の種であるなぁ、と宮の思慮の足りなさに軽蔑の念さえ込み上げてきます。
それにつけてもあの野分の折に垣間見た紫の上の姿は、あのような非常時態あってのことですので、思わぬ幸運だったのでしょう。
やはりあの御方ほどの女人はそうそうおられまいよ、と夕霧も人知れず頬を赤らめました。
 
常識的な夕霧がそのように女三の宮を判断しても、柏木には積年の想いがあるものでなかなか理性的にはなれないのです。
普段沈着冷静でその明晰さに定評のある柏木ですが、恋という病が彼の目を覆い隠してしまっているので、女三の宮の真実の姿を見ようとはしないのでしょう。
柏木の目には宮は天女のごとく美しく、その御声も鈴を転がすようであるに違いない、抱きしめれば天にも昇れるほどであろう、としか考えられないのです。
それどころか今日宮の御姿を垣間見られたのは、これは神仏のお導きで自分と宮は前世からの縁で結ばれているに違いない、と思い込む始末。
まこと恋というものは人を狂わせる恐ろしい一面を持っております。
柏木の裡には若々しく快活に笑う源氏に対する妬みが頭を持ち上げて、めろめろとどす黒い炎が広まっていくようでした。その業火はいずれ自身をも燃やし尽くすような恐ろしいものであるものに若い柏木にはそれがわからないのです。
夕霧は柏木の様子が気になったので、帰りは同じ車に同乗しました。
「君、今日はあまり飲まなかったではないか。体調でも悪いのかい?」
夕霧の問いにもうわの空で、柏木は女三の宮のことを思い詰めているようです。
「源氏の院は紫の上ばかりを重んじているということだね。女三の宮さまはどんなに寂しい思いをしておられるだろう。朱雀院秘蔵の姫と言われた御方であるのに源氏の院の仕打ちはひどいのではないか?」
思わぬ柏木の棘を含んだ非難と強い口調に夕霧は驚きました。
「そんなことをよそで聞かれたら大変なことになるぞ。慎みたまえ。紫の上さまは長年連れ添っているので軽んじることはできまいよ。かといって父上は女三の宮さまを大切になさっているのだから君の出る幕ではない」
夕霧の言うことはもっともで柏木の胸に突き刺さるようです。
「君の立場であればそう言わざるを得ないであろう。父君だしな」
悔し紛れに言い放った柏木はそれきり口を噤んでしまいました。
何やら追い詰められたような横顔に、もしや大それたことをしでかすのでは。と夕霧は一抹の不安を覚えるのでした。
 
女三の宮を垣間見てから柏木の心の闇はさらに深くなりました。
重く苦しいせつなさに気も狂いそうなほどです。
あがくように、また小侍従を呼び出して歌を託しました。
 
よそに見て折らぬなげきは繁れども
         名残恋しき花の夕影
(よそながら拝したことで、逢えぬ嘆きがますます深く、面影が今もなお恋しくて忘れられません)
 
小侍従はまたいつもの衛門督からのお文ですと女三の宮に渡しました。
「こうもしつこいと可哀そうになってしまいには仲立ちしそうですわ」
「まぁ、小侍従。いやなことを言うのね」
「言葉のあやでございますわ」
小侍従は宮とは乳姉妹なので気軽に冗談を言い合う仲なのですが、この女房はいささか蓮っ葉で尻軽なところがあるようです。
そんな小侍従を尻目に文を開いた女三の宮は驚きました。
 
見られていたのだわ・・・。
 
あの蹴鞠の日、御簾が巻き上がった折に見られたに違いありません。
宮は常日頃から源氏に思慮の足りなさを窘められていたので、このことが知られたらきつくしかられるであろうと恐れおののいておられます。
柏木に見られたということよりも源氏に叱られることが気になるとは、恋心の恐ろしさも知らぬ幼さが哀れに感じられるもの。
柏木と女三の宮、二人の運命が大きく動こうとしているのでした。

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