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紫がたり 令和源氏物語 第三百三十五話 若菜・下(一)

 若菜・下(一)
 
柏木が女三の宮に文をしたためても返事が返ってくることはなく、小侍従がその都度返歌をしているのですが、小侍従は蹴鞠の折の一件を知りませんでしたので、つれない返事を柏木に送りました。
 
いまさらに色にな出でそ山桜
    およばぬ枝に心かけきと
(まるで宮さまにお目にかかったようなことを仰るのは変ですわ。到底手の届かない宮さまに想いをかけるなど不遜極まりありません。人に知られるのも宮さまに迷惑がかかりますのでお顔にだされませんように)
 
柏木は自分と宮が釣り合わぬことなど言われなくてもわかっておりましたが、名門のいずれ大臣にも上ろうという血筋ゆえに自尊心を大きく傷つけられました。
あんな小侍従のようなつまらぬ女房の戯言が何ほどのものか、いずれは皇女を賜ってもおかしくない男になろうものを、と悔しくて仕方がないのです。
当代で風采品格共に備えた貴公子は夕霧と柏木、そのように世に褒めそやされているもので柏木にはそれ相応の自信があるのです。
小侍従などを介さないで宮さまと直接お話する機会でもあれば御心を動かしてみせよう、ともどかしさに身をよじるのでした。
 
柏木は今恋心に目を塞がれて冷静に判断が出来なくなっております。
まこと高貴な女人というのは兄妹でさえ御簾を隔てた対面で、妹の冷泉帝后・弘徽殿女御はまさに貴婦人たる嗜みを心得ておいでです。
よもや垣間見られるなど軽率そのもの。しかしながら柏木はそれさえ思い至らず、結ばれる縁であるからこそ、宮の御姿を拝めたのだと思い込んでおります。
またお側に仕える女房などで主人の人柄も窺えそうなものを小侍従のことはつまらぬ女と切り捨てても、宮が小侍従と話が合う程度の器とは考えず、小侍従を見限らずに側に置いているのは優しいご気性故であろうと勝手な解釈をするのです。
しまいにはあれほど尊敬していた源氏に対してもよからぬ感情を抱くようになり、ねじけた心はその眼差しにも宿るようになりました。
以前は快活で魅力的であった柏木が外に出るのも億劫がり、男たちの集まりにもたまにしか参加しなくなりました。
近頃では出仕もままならず邸に引き籠るようになったのです。
 
三月の末日、六条院で競射が行われることになりました。
殿上では二月に競射が行われるはずでしたが延び延びになっており、ついに三月になってしまったのですが、この月は冷泉帝の母后藤壺中宮の忌月であるので、華やかな催しは控えねばなりません。貴族達が残念に思っていたところに六条院で催されるということになり、みな喜んで参集しました。
柏木は源氏の院にだけはお会いしたくない、というのが本音でしたが、六条院には女三の宮がおられると思うだけで同じ景色を眺めて宮を近くに感じたい、などと足がそちらに向いてしまうのでした。
 
六条院には上達部、親王方、殿上人のほとんどが参上しておりました。
「柏木、久しぶりではないか」
親友の姿を見つけると、夕霧は嬉しそうに駆け寄りました。
「夕霧か、久しぶりだな」
「まったくだよ。君は最近宮中にも来ないではないか。少しやつれたようにも見えるが、どこか具合でも悪いのかい?」
「いや、至って元気だよ。さて、源氏の院に挨拶してこよう」
夕霧は柏木の下から探るように窺う目つきにずいぶんと様子が変わったものだと不審感を覚えました。
「ねぇ、待ちたまえよ。君も競技には参加するのだろう?」
「いや、どうもそんな気分ではない」
そっけなく踵を返す柏木を放ってはおけない夕霧でしたが、はや競射の呼び声がかけられました。
 
髭黒の左大将、夕霧の右大将は義理の兄弟で仲がよく、二人揃って庭に降りられると、続いて近衛の中将、少将も競い合って弓引きに参加される。
小弓ばかりではなく歩弓(かちゆみ)も急遽種目に加わりました。
腕に覚えのある者はみなこぞって参加し、あちこちで歓声が上がります。
六条院の女君たちが用意した賭弓(のりゆみ)の景品がまた素晴らしく、官位は低くとも弓には自信あり、という公達が思う存分腕を奮うので、源氏も親王方もたいそう面白く見物されました。
見学組は花の下に陣取り、今日が春の見納めとばかりに唄いながら盃を傾けております。
暮れゆくまま各々宴を楽しんでいるのですが、柏木だけは杯を握ったままじっと物思いに耽っているので、夕霧はそんな様子が心配でなりませんでした。
この二人は従兄弟同士でもありますが、心を許しあった親友なのです。
ところが柏木は沈鬱な表情で散る桜をぼんやりと眺めて心ここにあらず、といった風情なので、あの蹴鞠の時に垣間見た宮の御姿が彼を悩ませているのだろうと察しがつきます。
どうにも早く正気に戻ってくれればよいのだが、そう夕霧は親友を見守るのでした。

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