見出し画像

紫がたり 令和源氏物語 第四百七話 夕霧(十)

 夕霧(十)
 
日暮れには三条邸へ戻った夕霧ですが、いまだ宮からの御返事がないもので冴えない顔色をしております。
そのまま小野の山荘へとって返しても、宮とは何があったわけではないので、へたをすれば門前払いを喰らう、という恥ずかしい目に遭う羽目になろうかと自粛したのでした。
雲居雁はことありげに夕霧が帰邸したのをとうとう女二の宮を娶られたのかと気が気ではないのでした。
六条院にいる女房づてで夕霧の忍び歩きの噂はもうその耳に入っているのです。
二人の愛が終わったと知っても雲居雁は夕霧を愛しているわけで、事実がはっきりするまでは静観しようと自制するものの、その間というものは生殺しのような状態です。息も出来ずに小さな胸がつぶされるほどに重苦しいものなのです。
子供たちが多くあるので何やかやと気が紛れますが、もしも夕霧が宮を娶られることになれば消えてしまおうと考えているのでした。
「雲居雁、只今戻ったよ。花散里のお母さまがお風邪を召したということなので、六条院に寄ってきた」
「お加減はお悪いのですか?」
「いや、もう治りそうなほどに軽いということで安心したよ」
こうして見ると夫はいつもと変わらぬようで、雲居雁もそれ以上何も言うことはありません。
夕霧が召しかえる為に次の間に入ると側近の一人が手紙を携えて来たようです。
それを目敏く見つけた雲居雁は只ならぬもの、と即座に看破し、どうにかならぬものかと考えました。
手紙を受け取った夕霧は、御息所からのものであったので、怪訝な顔をしながら文机の側に寄りました。
どうやら筆跡が乱れて殊更に読みづらく、灯を引き寄せようとすると、後ろから足を忍ばせて近づいた雲居雁が手紙を奪ってしまいました。
「何をするのだ。はしたない。君はとんでもないことをするのだね。それは花散里のお母さまからのお手紙だよ。」
「嘘をおっしゃい。女二の宮さまからでしょう。あなたの忍び歩きの噂はこちらにも聞こえておりますのよ」
夕霧は内心狼狽しましたが、それを面に出すようではこれまでの苦労が水の泡になってしまいます。
もうすぐ宮さまを正式に娶ることが出来そうなのにここで雲居雁に騒がれては世間体もみっともなく、御息所のお気持ちも変わられてしまうでしょう。
「まるで下々の女がするような振る舞いではないか。別に読んでもかまわないが、返事を書かなくてはならないから後で返しておくれよ」
夕霧が関心無さそうに、無理に取り返そうともしないので、雲居雁は本当に関係のないお文かと自分の行いが恥ずかしくなり、上げた拳を下せないような情けない気分になりました。
夕霧はそんな困った顔をした妻が可愛らしく、笑んで諭すようにいいました。
「誰がそんな根も葉もないことを吹き込んだのかなぁ。もしも私が浮気をしてもあなたを長年守ってきたのですよ。見捨てることもないでしょうに。そもそも一人の女だけを守るつまらない男だと世間では思われているようだが、どんなことになっても私の北の方はあなた一人だよ」
そのように懐柔しようというのは、なんとか丸め込んで手紙を取り戻そうという賢しい夕霧の罠であるが、自分の行いを恥じている雲居雁にはそれが見抜けないのです。
そして手紙を読んでよいといわれると却って読めなくなるのが人の性というもので、夕霧のなんと言葉巧みであることか。
「あなたは近頃ずいぶんと若返られて心此処にあらずでしたもの。わたくしが疎まれていると感じるのは当然でしょう」
自分では冷静であったものの、そうした素振りがあったのか、と夕霧は恋の病の恐ろしさを実感します。
「私が浅葱の袍を着ていた時に馬鹿にした君の乳母の大輔の君は私を快く思っていないからそのように中傷めいた告げ口をするのだろうか。宮さまにも失礼であるから慎むようになさい」
巧みに話の方向をすり替えてゆくので、雲居雁はこれ以上の追及はできぬと諦めていたところ、若宮の鳴き声がしたので、そのまま手紙を持って御座所を離れてしまいました。
さても困ったことになったと思いつつも、雲居雁をうまく騙して当然宮との縁組はなされるのだよ、とその後ろ姿を見送るのには些か胸が痛む夕霧なのでした。

次のお話はこちら・・・


この記事が参加している募集

#古典がすき

4,040件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?