紫がたり 令和源氏物語 第百三十七話 澪標(五)
澪標(五)
源氏の施政によって安定してきた都は元のような活気に満ちた姿に戻りつつありました。
そうして源氏が一息つく頃には、季節は巡り、秋になろうとしておりました。
京に戻りはや一年が経とうとしております。
須磨、明石ではあれほど時の流れが遅く感じたものを、今では時間が足りないと嘆く君です。
この秋の美しい風情に誘われて源氏は住吉大明神へ願ほどきに詣でようと決めました。
源氏は数日の暇乞いの為に冷泉帝の元に伺候しました。
秋特有の抜けるような空に清々しい風が吹き抜けていきます。
紅く染まった勝虫(かちむし=とんぼ)が高く低く飛ぶのも実りの時期が近い証拠です。
明石の浦で見た勝虫には、このまま心だけを都まで連れて行っておくれ、と嘆いた日がもはや遠くに感じるようになりました。
このような折にこそ復権した喜びを噛みしめずにはいられないのです。
ありがたさにふと足を止め、冷泉帝のこの御世が豊かでありますように、と祈るばかりです。
帝のお側には藤壺の入道の宮もおられました。
入道は落飾されたので皇太后という位にはつけませんが、今は御封(みふ=禄)もそれに準じており、“藤壺の女院”と呼ばれておられます。
何より気兼ねなく冷泉帝にお会いできるのが以前と変わって晴れ晴れとした御顔でいらっしゃいました。
藤壺の女院と源氏、この二人の関係も変わってきておりました。
それはもちろんお二人とも互いを想う気持ちを捨てきれぬところはありますが、女院は仏弟子となった身ですし、男女の愛を超えて帝をお守りするという信念の元に戦友のような関係に変容しつつあります。
女院は源氏が流浪の果てに大きな獅子となって戻ってきたことを頼もしくも嬉しく感じておられましたが、二人の愛が過去のものになったのだと少しさみしく思われるのでした。
こればかりは女心とて致し方なきことでしょう。
帝は源氏を慕っているので気兼ねなくお声をかけられます。
「源氏の大臣、住吉大明神に詣でられるそうですね」
「はや帝の御耳に届いておりましたか」
「大明神は霊験あらたかと聞き及んでおります」
「はい。何より住吉大明神に救われたこの身ですので・・・」
源氏が須磨で辛い思いをしたことを仄めかすと帝も寂しく感じていた三年の日々を思い出されたようです。
「本当に戻られてよかった」
そのまっすぐな瞳が素直な御性質であるように思われて、学識、教養だけでなく気立てもお優しく成長されたものよ、と源氏は心の裡で涙を流しました。
源氏の宮中での宿直(とのい)所は桐壺と昔から定められております。
その近くの梨壺には新春宮であられる朱雀院の皇子がいらっしゃいました。
まだ幼いので、東宮殿ではなくこちらで母君の承香殿女御と暮らしておいでです。
源氏は度々春宮に拝顔し、女御にも何かあればお声をかけてください、と気を遣っているので、女御も源氏に親しみをお持ちのようです。
女御の父君は現右大臣でいらっしゃいますが、女御はあまり深く朱雀院の寵愛を受けたわけではないのです。
控えめな姫で、いつでも朧月夜の尚侍の君に気圧されていたのですが、皇子をお産みになったことで今はときめいておられるのです。
新春宮は面差しが朱雀院に似ておられることから、亡き桐壺院にも似ておられるように思われます。
源氏にしてみれば甥にあたるわけですし、懐かしく感じられるので自然にこちらも後見のような気持ちになるのでしょう。
何よりこの君に明石の姫を差し上げようという政治的な野心も芽生えているもので、親身になってお世話しようと考えているのです。
昔の源氏ならば女御にけしからぬ下心でも抱きかねないところですが、やはりこの辺りが立派になられたところでしょうか。
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