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紫がたり 令和源氏物語 第三百九十五話 鈴虫(四)

 鈴虫(四)
 
十五夜の月が華やかに差し昇り、辺りには源氏の爪弾く琴の音が微かな揺らめきをもって響き渡りました。
源氏は自分の前を去っていった女人達を想うて琴を奏でているのです。
遠く彼岸へ渡られたあの御方、徒然に文を交わし合いながら結ばれなかったつれない高貴な人、赦されぬ恋と知りつつ烈しく愛し合った人、みなが次々に世を捨てられて、自分一人が取り残されてゆく。
そんな寂しさと女人の潔さへ感服する気持ちがないまぜになり、たゆたうような調べがまたあわれに感じられます。
女三の宮は源氏のそうした心裡を察することはできませんが、胸に響く旋律に涙を流さずにはいられないのでした。
 
このような趣深い中秋の名月を何事も無く過ごすとは惜しい、そう感じられた風流男・兵部卿宮は夕霧を隋人として六条院を訪れました。
六条院に近づくと風に乗って流れてきた琴の音が得も言われぬ風雅をかもしだしております。
「これは兄上の手であるな。やはりここに来て正解であった。それにしてもなんとも儚げで美しい調べであることか。のう、夕霧の大将の君」
「はい。父上が御心のままに奏でられているのでしょう」
「誰に聞かれるとも心にとめぬ名人の手はまた格別であるなぁ。これだから気儘な独り歩きはやめられん」
兵部卿宮は車を停めるとしばしの間耳を傾けられました。
すると同じくこの宵を惜しく思った貴公子達がゆるゆると連なってやって来るてまはありませんか。
「みな考えることは同じということだな。大将の君、皆の訪れを兄上に知らせておくれ」
「かしこまりました」
夕霧が笑みを浮かべながら宮の御前を辞去すると、やって来た車が次々と停まりました。
「源氏の院に一番にご挨拶しようと参りましたが、どうやら兵部卿宮さまに先を超されたようですね」
車を降りて快活に話し掛けてきたのは柏木のすぐ下の弟・左大弁の君でした。
「これは笛の妙手がいらしたとは心強い。共に院の元へ参りましょう」
「さすれば、ご一緒に」

源氏は弟の兵部卿宮を始め、夕霧や殿上人たちがやって来たのを嬉しく歓迎しました。
「兄上、お一人で月見とは水臭い」
兵部卿宮が親しげに言うと、源氏もいつものように愛嬌のある笑みで応えます。
「なに、風流人を名乗る誰かがやって来るのを待っていたところだよ。さぁさぁ、上がりたまえ。皆で“鈴虫の宴”としゃれこもうではないか」
この宵は御所で月見の宴が催されることになっておりましたが、急遽中止となったので、みな物足りなく思っていたのでしょう。
噂を聞きつけた上達部はまだまだ続々と六条院に集まり始めました。
各々得意とする楽器を手に、虫の声と比べるように奏であいます。
久しくこうした催しが控えられていたもので、のびのびと楽しげに酒を酌み交わし、ある者は月にちなむ歌を詠み、ある者はほんのひとさし舞ってみせる、月を映した盃は水面を揺らしながらあわれ深い。
興ののってきた頃に、源氏はぽつりと呟きました。
「このような宴には必ず柏木がいたものだな。花の色、鳥の音にしてもその趣を弁えていて優れた者であったよ。ここに彼がいないのが惜しまれるものだ」
そうしてつと涙を流される。
 
女三の宮は御簾のうちにてどのように聞かれたでしょうか。
それはいつぞやの御前に柏木と宮を引き並べて責められた時とは違うようでした。
源氏は今心から柏木を惜しんでいるのです。
 
夕霧は父が柏木を赦したのだと胸の裡で友に呼びかけておりました。
「柏木に・・・」
夕霧が柏木を偲んで盃を煽ると、その場にいる者はみなそれにならって盃を奉げたのでした。

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