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令和源氏物語 宇治の恋華 第三十九話

 第三十九話 恋車(一)
 
八の宮の山荘は濃い喪色に包まれ、まるで時が止まったように暗く沈んだ日々を過ごしておられました。
姫君たちの嘆きも癒えることはなく、梳るのもうるさがるのを長くお仕えしている身ながら耐えられないように思う者もちらほらと。
そんな矢先に訪れた薫中納言の御姿はまさに目を洗われるように感じられたことでしょう。
青鈍色の直衣に打たれた絹の柔らかく艶のある下襲がなまめかしく、心から喪に服する姿勢はこの君の清廉さを表しているようです。
弁の御許は喜んで薫君を迎えました。
「薫さま、ようこそお越しくださいました」
「弁、久しいな。息災か?」
「はい、おかげさまで」
「姫君たちは心を痛められておられるであろうな」
「それはもう、ただ父君のみを頼りとされてきた御方たちですもの」
案内されながら、廊を渡る足をふと止めた薫は鈍色の御簾を悲しく眺めて、庭に目をやりました。
「私は宮さまともうお会いできないというのが未だに信じられないでいるのだよ。しかし喪に飾られたこの邸を見ると打ちのめされてしまう」
「そうでございますね。わたくしほどの歳になりますと数え切れぬほどの別れに遭ってまいりましたので取り乱すこともありませぬが、それでもその都度辛うございますわ」
「ましてや姫君たちはもっとも近い肉親を亡くされたのだから、嘆きも深かろう」
先に訪れた阿闍梨は姫君たちを諭そうとされましたが、この君は共に八の宮の死を悼んでおられるのだ、やはり御心の優しい御方であるよ、と弁は感じ入りました。
東の廂の間にて客人を迎えた姫君たちはこれまでにないほど近く御簾越しに見る薫君を眩しく思いました。
くわえて仄かに漂う芳しい香りに酔うような心地です。
これまでそのような経験のない姫君たちは御簾から離れるように身じろぎしました。
殿方といえば父君しか知らぬ姫たちなのでさもあらんことでしょう。
そうして胸が早鐘を打つように平静ではいられぬ姫君たちの心を知らず、薫は弁が取次となって言葉を交わすのを物足りなく感じたようです。
「どうかよそよそしくなさらないでください。私は物心つく前に肉親と別れてしまったので、八の宮さまを父とも思って心よりお慕いしておりました。悲しみはあなたがたと同じと分かち合いたいのです」
それも尤もと大君は慎ましくいらえを返しました。
「父に遅れて生き残っているのが夢のように思われまして、喪に服しながら空を眺めるのも憚られますの。しばらくは端近にもでませんものでお許しください」
「服喪ということをそこまで厳しく捉えられることはありませんでしょう。宮さまを偲ぶ御心こそ肝要であると私は考えております」
薫君の優しい物言いにさすがに女房たちも姫君たちが引っ込み思案すぎると耳打ちするので大君は御簾の傍まで膝を進められました。
薫は鈍色の御簾越しに大君の姿が透けて見えるのが嬉しくて胸を躍らせました。
「お聞き及びかもしれませんが、私は姫さまたちをお守りすると宮さまに固く誓いました。これからは身内と思っていただいてなんなりとご相談ください」
「恐れ入ります」
大君の返事はおっとりとあくまで上品なのが益々慕わしい薫なのです。
「先刻山の阿闍梨をお尋ねして参りました。お二方を案じられておりましたよ」
「阿闍梨には取り乱したところをお見せしてしまいましたわ」
「御父上が亡くなったのですから仕方がありませんよ。私とて頭では宮さまは御仏の元へ旅立たれたと割り切ろうにも、込み上げる悲しみはどうにもなりません。私達が宮さまに強い思いを残すと後の世へ生まれ変わることに障りがあると御仏の法は説かれますが、それも遺された者たちの心を安くする方便ではあるまいか、などと不遜なことを考えたりもしましてね。私は宮さまと過ごした時を生涯忘れることはないでしょう」
大君は自分が感じたようなことをこの御方も考えられていたというのが不思議で尊い君を近くに感じました。
「父を心底慕ってくださってありがとうございます。父は薫さまと巡り会えたことを僥倖と申しておりました」
「私こそ宮さまにお会いできて救われましたし、多くを学ばせていただきました。宮さまから受けたご恩を姫君さまに尽くすことで返させていただきたいと考えております」
「ありがたく存知ますわ」
薫は大君に名前を呼ばれたことで親しみが増して、じんわりと炎が灯ったように胸の裡が温もるのを感じました。
 
なんと心地よいのであろう。
大君と言葉を交わすだけで私の心は溶かされてゆくようだ。
どうにもこの人の前では己を飾らずにすむものよ。
 
薫は宮との思い出などを時には涙を浮かべながら語りました。
大君は控えめに話に聞き入り、父宮を懐かしんでは涙ぐまれました。
薫ははっきりとは姿が見えぬが為に胸が焦がれて、いつか垣間見たあの御姿を思い浮べて詠みました。
 
色変る浅茅を見ても墨染に
   やつるる袖を思ひこそやれ
(枯れ果てた浅茅を見るにつけても墨染めの喪服に身を包まれてやつれていらっしゃるであろうあなたの姿が思われるのです)
 
色変わる袖をばつゆの宿りにて
   わが身ぞさらに置きどころなき
(喪服の色と変わった私の袖には涙の露を置いておりますが、私自身は身の置き所もありません)
 
大君は「はつるる糸は・・・」と言いさして奥に下がってしまわれました。
これは古今集にある父の死を悼んだ歌を大君は口ずさもうとしたのですが、亡き宮を思い出されて悲しみの涙を留められず最後まで詠じることができなかったのです。
薫には未だ癒えぬ悲しみは同じである、と大君を愛しく感じました。
「少しでも姫君たちの御心が安らかであられますようにとお祈り致します。それではお暇を」
薫は深く頭を垂れると座を立ちました。
その颯爽とした姿を大君は好もしく感じたのでした。

次のお話はこちら・・・


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