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令和源氏物語 宇治の恋華 第四十話

 第四十話 恋車(二)
 
宇治の姫君に想いを寄せていた匂宮は八の宮の突然の薨去に戸惑っておりました。
宮のこれまでの恋のお相手はというと、両親の揃った生活に不自由のない姫や自活している女房、内裏にてお仕えしている女官などでしたので、男性の庇護がなければ生活に困窮してしまうような落ちぶれた方はいないのでした。
八の宮が存命ならば気兼ねなく通うこともできたであろうに、今となっては本格的に姫の人生を負うようでなければ逢うことも叶わぬ、とどこか窮屈に感じ始めているのです。
親王という重い身分の宮は父帝や中宮である母に紹介し、正式に妻として世間に披露するには宇治の姫の身分が低いのを難しいところであると考えております。
そんな宮に言わせると薫の立場というのは実に有利に思えてなりません。
いざとなれば姫を京に迎える財力もあるわけですし、微行に勤しんでも咎められることはないからです。
かといってこのまま宇治の姫を諦めるのも惜しく思われるので、心ばかりは示しておこうと見舞いの手紙をしたためられました。
しかし度々文を送っても宇治の姫たちからは返事が来ません。
姫たちはうち沈んでとても手紙などしたためる気分にもならないのです。
もしもこの手紙が薫の書いたものであれば素っ気ないあしらいはないだろうに、と思うにつけてもじりじりと焦がれて益々宇治へ想いを馳せる宮なのです。
そうしてほんのりと恨みを滲ませた歌を贈りました。
 
 牡鹿なく秋の山里いかならむ
     小萩が露のかかる夕暮
(牡鹿の鳴く山里では如何お過ごしでしょう。牡鹿に負けず私の心が泣いているのをご存知でしょうか?萩の下葉が枯れ行く様も悲しく思われます)
 
匂宮からの手紙は京の風を運んでくれる洗練されたものばかりなので、女房たちも心待ちにしているのでしたが、このお手紙にはさすがに返事をなさらないとまずいのでは?と姫君たちに進言しました。
「宮さまのお恨みも尤もでございますわ。度々お見舞い下さるご厚意を礼儀も情けも弁えぬと取られますと姫君たちにとっても、ひいては亡き八の宮さまも情け知らずと噂されましょう」
父宮の名誉に関わることとなれば大君も心穏やかではいられません。
「中君、返事をお書きなさい」
そうして硯を引き寄せても中君はやはり筆を取ろうとはしません。
「どうしてそっとしておいてくださらないのでしょう。わたくしはやはり返事など書けませんわ」
遣いの者は宵の口に山荘に着いたのでこちらに泊まるように勧めましたが返事を持ってすぐにでも京へ戻ると聞き入れません。
それほどに宮さまが返事を待ちわびているのかと考えると、大君は仕方なく自ら手紙をしたためることとしました。
 
涙のみ霧りふたがれる山里は
    まがきに鹿ぞもろ声になく
(涙の霧で塞がれたこの山里で私達はそろって籬の鹿のように泣き濡れているのですよ)
 
鈍色の紙に無造作に綴った手紙を使者は大事そうに懐へ忍ばせて宇治を発ちました。
 
返事を受け取った匂宮はこれまでとは手の違う文を珍しく思いました。
 
さてこれは姉であるか、妹であるか・・・。
 
どちらにしても大人びた柔らかい手跡です。
こうした違う顔を見せられるだけでも心が動かされて、やはり宇治の姫君たちを諦めるには惜しいと思われるのです。
夜が更けても手紙を置くことなく見続ける宮の姿をいったいどのような姫が宮さまの心を捕えているものか、と女房たちは噂しあうのでした。
 
 
朝霧に友まどはせる鹿の音を
    大方にやはあはれとも聞く
(朝霧の立ち込めるうちに友を亡くした鹿の悲しむ声を聞くように、あなた方の深い嘆きをお察し致します。私も共に泣いているのですよ)
 
大君は夜が明けると共にもたらされた匂宮の手紙を些か煩わしく感じておりました。
「匂宮はたいそうな女たらしだと聞くわ。本気でわたくしたちのような田舎者を相手になさる筈がないもの。父上が生前ご心配なさったように山里に囲われる愛人のように世間に笑われてはみっともないことだわ。この君にはあまり心を許さない方がよいかもしれないわね」
聡明な大君は匂宮を強く警戒し、この手紙への返事はついぞしませんでした。
「お姉さま、わたくしたちはどうなるのでしょう?わたくしは心細くて仕方がないわ。いっそ父上が早くお迎えに来てくださればよいのに」
「そうね。でも二人で寄り添って生きてゆくしかないのだわ」
姉と妹は手を握り励まし合いました。
それにしても父宮がおられた時にはそれほど感じなかった水音が今は轟々と恐ろしく響くものです。
父の居ない不安をまざまざと思い知らされてさすがの大君も心細く、すぐそこまで近づいた冬の足音に慄くばかり。
不安に揉まれている処に薫君からの遣いがやって来たのでした。
その者たちは近くにある薫の荘園の下男たちで、雑用から警備からを担ってくれるということです。
弁の御許は薫の配慮を姫君たちに報告しました。
「大君さま、中君さま。薫さまからお手紙でございますよ。御親切に人をよこしてくださったのですわ。姫様たちへは美しい綿入れなども届けられております。冬山の寒さは厳しいものでございますからねぇ。なんてありがたいお心遣いなのでしょう」
大君は薫の名を聞くとほっと安堵する自分にいまだ気づいておりません。
「薫さまは何でもよくお気づきになるのね。それではわたくしが返事を書きましょう」
そうして硯を引き寄せる姉の後姿を中君は複雑な気持ちで見つめておりました。
大君は女二人で生きてゆく厳しさというものを感じ始めていたのです。
ましてや姫としてかしずかれてきた身では生活のことなどを切り盛りすることもままならないのをもどかしく感じておりました。
父宮の弔いにおいても後で弁の御許から聞いた話ですが、薫君が布施や寄進などを用意して立派に執り行われ、山から代わる代わる経を上げにやってくる僧侶も薫君の配慮からであるというのを知ったのです。
大君はこのまま山で独り身を通そうと決意しておりますが、中君の見飽きぬ美しさを目の当たりにすると朽ち果てさせるには惜しく思われます。
誰かと娶わせるのであれば匂宮ではなく薫君を、という願いが強くなり、君に対する姿勢は自然鄭重になるのでした。
 
それにしても恋心というものはどのような時代でも厄介なものです。
薫は誰あろう大君その人を恋うているのですから。
大君こそ薫を慕っているものを、恋も知らずに三十路近くまで生きてきた乙女には胸の奥底に眠る感情に気付かぬのでした。

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