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紫がたり 令和源氏物語 第三百六十一話 若菜・下(二十七)

 若菜・下(二十七)
 
紫の上が亡くなられたという噂はたちどころに知れ渡りました。
夕霧はあの春の上が、と一番に駆けつけましたが、物の怪の仕業で、一命をとりとめたということで胸を撫で下ろしました。
次々と弔問客が訪れるのを源氏に代わって対応したのがなんとも頼もしく、源氏は安心してずっと上の側についていられるのです。
こういう時に駆けつけぬでは世の人々に怪しまれると考えた柏木も見舞いという体で二条院を訪れました。
「夕霧よ、紫の上様がお亡くなりになったというのは本当か?」
「柏木、よく来てくれた。いや、息を吹き返されたのだよ。もう大丈夫だ」
見ると夕霧は泣いたように目を腫らしております。
道ならぬ恋に身を焼く柏木はさては夕霧も紫の上にそうした想いを抱いているのかとおのずと察せられるのでした。
 
訪問客が去り、源氏は一人になった御座所であのぞっとするような御息所の声を思い返しておりました。
女人とはあそこまで思い詰めるものなのか、どこまでも罪障の深い生き物であるといたく感じられるのです。
あれは女楽の翌日に紫の上と語らったことではあるまいか。
御息所の魂は未だこの世に留まり、この身を見続けているとは気味が悪い、そう心底おぞましく、情けを懸ける気も起きなくなるのでした。
源氏は高僧を紫の上の枕元へ呼び寄せ始終読経させるように命じましたが、物の怪は現れたり消えたりでなかなか離れようとはしません。
そこでこのうえは五戒を授けることで物の怪を退けようと考えました。
これは五つの戒(殺生・偸盗・邪淫・妄語・飲酒)を守ることによって在家のまま仏門に帰依したという印を示すのです。
そして形ばかりに頭の上の方の髪を少しだけ切りました。
 
一度紫の上を失ったと思った源氏は二度とあのような思いはしたくない、と益々上の側を離れられなくなり、一日中手を握って優しく励まし続けております。
紫の上はもうこの命は尽きたものと思っておりましたが、源氏がずっとそばで嘆く姿を見て、徐々に哀れを催し、大きく心を揺さぶられました。
そして君を悲しませてはならないという気持ちが芽生えてきたのです。
源氏への愛は死んだと心を固く閉じ込めていたものを、まるで鎧を剥がされてゆくように本当の自分が姿を現わしました。
源氏のことを憎んだことも恨んだこともありました。
しかし紫の上は命が揺らめくその時に、憎しむという気持ちは愛と同じ川から注ぐ感情であるということを知りました。
愛すればこそ人は憎むのです。
そしてその想いゆえに囚われて苦しい。
本当に愛がなくなれば憎むという感情さえも意味を為さなくなるのだ、そう上の流した一筋の涙はそれと共にわだかまりをも押し流してゆくのでした。
 
 
上が薬湯などを召し上がるよう努力し、生きようという意志を見せたことで、夏が訪れる五月には頭を持ち上げられるまでに回復しておりました。
やはり人というものはその意志、気力によって支えられているものなのでしょう。
そんな紫の上の回復する様子を見て心から喜ぶ源氏を目の当たりにすると、やはりこのまま儚くなるわけにはいかないと上は改めて考えるのでした。
そう遠くもない未来にいずれ別れの日は訪れるでしょう。
しかし心に折り合いをつけることで、次第に別離を受け入れることが出来るに違いないと思うのです。
その為にも今は生きなければ、と心を強く保つのでした。
 
さらに一月が過ぎ、日毎暑さが増してきて、起き上がれるようになった紫の上は久々に髪を洗ってすっきりとした気分でくつろいでおりました。
源氏はよくもまぁここまで回復されたと嬉しくて涙が込み上げてきます。
白く透き通った肌がまるで羽化したばかりの蝶のようで、なんとも美しい上の御姿です。
「紫の上、そこにある蓮の花が見えるかい?あの露がなんとも涼しげではないか」
庭の池に薄紅の凛とした蓮の花が尊く、天上の蓮もこのように美しいものかと思いを馳せる紫の上です。
 
消えとまる程やは経べきたまさかに
    蓮(はちす)の露のかかるばかりを
(あの蓮の露が消えるまでわたくしは生きていられるでしょうか。それほどにもう残りの時間は少なく思われます)
 
源氏は上のそんな儚げな歌が悲しくて、心からの愛を持って返しました。
 
契おかむこの世ならでも蓮葉に
      玉ゐる露の心へだつな
(今ここであなたに誓おう。私達は来世でも連れ添う仲なのだと、そんな私に心を隔てられるようなことはなさらないで下さい)
 
“一蓮托生”という言葉があります。
これは人が死して後、極楽浄土に生まれ変わる際にお釈迦様の池の蓮の花の元に生まれると言われておりますので、その同じ蓮に共に生まれることを誓い合った者のことを言うのです。
すなわち源氏は紫の上と共にあの世までもと誓ったのでした。
 
それはわたくしではないはずだわ・・・。
 
紫の上は胸の裡によぎった言葉を口には出しません。
うっすらと浮かべる笑みは清らかで読み解けない心色を含んだものでした。

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