見出し画像

紫がたり 令和源氏物語 第三百六十二話 若菜・下(二十八)

 若菜・下(二十八)
 
源氏が相変わらず紫の上にばかり心を砕いている間にも女三の宮の物思いは深くなってゆきます。
柏木はあの後何度となく姿を現しました。
「宮さまを誰よりも愛しております。私をどうお思いですか?」
柏木は来るたびにそのようなことを聞くのですが、愛とはどういうものなのか、宮にはまだよくおわかりになりません。
柏木の振る舞いはいつまでたってもただの無体としか感じられず、ただ死んだように嵐が過ぎるのを耐えておられるのです。
もしも柏木に宮を思い遣る心があれば宮もほだされたでしょうか。
若いということは得てして相手の気持ちを斟酌できない傍若さを表すことに他なりません。その度に宮の御心が傷つけられているというのに気付かぬ柏木なのです。
さらに悪縁とも言うべきか、宮はやはり柏木の子をその身に宿されたようで、懐妊と医師に告げられてもなんのことかとよくもお分かりにならない宮さまのご様子がまこと不憫でありましょう。
 
 
女三の宮からの使者で宮の懐妊を知らされた源氏はひとときも紫の上の傍を離れたくないと感じつつも、そうした身重の妻を顧みないでは朱雀院からも今上からも薄情と恨まれるであろうと六条院へと足を向けることにしました。
「紫の上、女三の宮が懐妊したらしくご気分がすぐれないのだそうな」
「まぁ、あなた。おめでたいことですわ。わたくしは大丈夫ですから早く宮さまの元へお渡りになってくださいまし。普通の状態ではありませんので、しばらくあちらで宮さまをお慰めしてあげてくださいませ」
紫の上は邪気のない笑顔で源氏を送り出そうとします。
「いいかい、けして無理をしてはならないよ。辛かったりしたらすぐに私へ知らせるのだよ」
「わかっておりますわ、あなた。いってらっしゃいませ」
源氏はまたこの間のように自分が留守の間に紫の上が危うくなったらどうしたものか、とそればかりが不安で何度も邸を振り返りながら六条院に向かうのでした。
 
宮は少し痩せられたようで、目を伏せて恥ずかしそうにしておられるのが初々しく感じられましたが、宮は源氏と目を合わせるとその内にある惧れを気取られるのではないかと気が気ではないのです。
このいつまでも幼い宮には秘密というものは大層重いものなのでしょう。
源氏が何か尋ねてもおどおどとはっきりとお答えすることができないのが、またいつもと違うと思われると辛く、困ったように押し黙ってしまわれる宮なのです。
源氏は普通の状態ではない上に、あちらにばかり心を向けていると拗ねておられるのだろうかとすまない気持ちもあるので、ただ優しく労わるように接するのがまた宮には一段と心苦しく感じられます。
六条院には二日の滞在のつもりでしたが、源氏の心は紫の上のことばかりを心配してしまいます。
時間があれば二条院へ手紙ばかり書いているので、宮の女房たちは、
「よくもまぁ、ああ頻繁に書くことがあるものですわね」
と皮肉であてこすって面白くないようです。
宮が萎れているのも源氏がこのように薄情であるからと陰口を叩いておりますが、よもや柏木との不義を思い悩んでおられるとは、事情を知らないこととて思いも至らないのでした。
柏木は源氏が宮の元へ渡られたと聞くや、またも詮無い嫉妬でお逢いできない恨み言などをつらつらと書き連ねた文を小侍従に託したのでした。
まったくどうした了見でこのような振る舞いをするのでしょうか。
小侍従は仕方なく手紙を宮の元へ持っていきました。
折しも源氏は東の対へ行っており、宮のお側には他の女房などもおりません。
「宮さま、お文でございます」
「またあの人からなの?そのようなもの、どこかへやってしまって」
源氏が六条院にいることから慄かれているのかと小侍従は得心しましたが、小侍従とてこの手紙は荷が重すぎるのです。
ご自分でどうにかなさってください、と無理やりに宮に手渡しました。
するとそこへ他の女房と源氏がやってきたので、宮は恐ろしさのあまり、御茵(しとね=座布団)の下に手紙を隠しました。
小侍従は何食わぬ顔で出て行きましたが、宮は顔面蒼白で小刻みに震えておられます。
「陽が暮れる前に二条院に戻ろうと思うのですが、御身は大丈夫ですね?」
源氏がそう問うと、宮はあまりの心細さに涙を浮かべられました。
柏木はいつでも源氏の不在を狙ってやって来るのです。
側にいると安心できる源氏に去ってもらいたくはありません。
 
夕露に袖ぬらせとや日ぐらしの
    鳴くを聞く聞くおきて行くらん
(あなたは鳴いている蜩<ひぐらし=私>の声を聞きながら、通常ならば夕暮にくるものを夕暮に帰るというのはさびしいですわ)
 
その子供っぽい詠みぶりに源氏は、私を呼ぶ蜩は二条院でも鳴いているのだが、と思うのを呑み込んで、宮が哀れとばかりにもう一夜留まることを決めました。

次のお話はこちら・・・


この記事が参加している募集

古典がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?