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紫がたり 令和源氏物語 第百二十話 明石(七)

 明石(七)

「私は都にいる間は知識ばかりで国の仕組みというものをちゃんと理解していたかというと疑問が残ります。須磨に生活して初めて民の働きが国を支えていることを実感しました。我ら貴族などは海士などにくらべると大した仕事はしておりませんね。恥ずかしくなりましたよ」
神妙な面持ちで話される源氏の君を入道は聡く稀なる御方であると感じ入りました。
なまじ脆弱な貴族なれば嘆き暮らして日々を明かそうものを、この君はうらびれた所にあっても国の在り方にまで目を届かせているのです。
まさに国家の柱石となる器をお持ちであると感服しました。
「いやいや、君よ。帝を始め政事をなさる方々こそ、この国の行く先を定めているのです。あなた方が頭とすれば、下々はまさに手足。優れた頭脳がなければ惑うばかりです。君のような御方ならばこの国を正しく導かれるでしょう」
「私に何ができましょうか。今の私は無位無官の流浪人にすぎません」
「神仏がこのままを許されるはずもありません。今しばらくの御辛抱ですぞ」
入道の力のこもった言葉に源氏は励まされ、慰められるようでした。

入道は御前を退出すると、興奮冷めやらぬ昂揚感で、山手の御殿へと向かいました。妻と娘に源氏の君の只ならぬ在り様を話して聞かせようという心づもりです。
妻は源氏に姫を奉ることに反対の意を示しておりましたし、姫はどうにも乗り気でないからです。
「源氏の君は素晴らしい御方だ。やはり私の目に狂いはなかった。しかし毎日勤行に明け暮れて慎ましく過ごされている姿がご立派で、とても姫を娶っていただきたいなどと申し上げられぬのが困ったものだ」
そう深い深い溜息をつきました。
「そうでしょうとも。やはり尊い御方に田舎娘などは不釣合いですわ」
なんとか夫の野心を挫きたいとする妻は、身分という大きな壁がそこに立ちはだかり、分不相応な夢は恐れ多いと戒めます。
「何を言う。姫を託すのにあの方以上の殿方はおらん」
「それはそうでしょう。天上にある方ですのよ。あなた、源氏の君には数多の女君がいらっしゃるという話ではありませんか。もし仮初めにも姫を気に入られたとしても、打ち捨てられるようなことになればどうするのです?」
「聞き及ぶところによると、君は一度契りを交わした女人をけしてお見捨てにならぬ、ということだ。そのように情け深い御方が姫を捨てたりなぞなさるはずがない」
妻は長年の大望が成就されると信じて疑わない夫には、もう何を訴えたところで意思を変えぬ、となかば心折れる体ではありましたが、母として、子を想う心は尽きぬのです。
「そもそも、本当に源氏の君が復権できるかどうかもわからないではないですか。世は太政大臣と弘徽殿大后が牛耳っておられるのですよ」
「これだからお前は浅薄でいかん。君のような御方と縁を結ぶには、このように君が明石に流れ着くようなことがなければありえないことなのだ。それが実際に巡り会うということこそ、宿縁。神意なのだ。太政大臣の世などそう長くは続くまい。先の天変地異を見れば明らかなことよ」
「あなた、何と畏れ多いことを言うのです」
「ええい、うるさい。必ず姫を君に奉る。よいな」
妻にさもありなむと言う風に反論されると、癪にさわり元の強気が戻ってくる入道なのです。
妻は複雑な心境でしたが、言いだすときかない夫の気性を知っているので、口を噤むしかありませんでした。
姫のほうはと言いますと、やはり自分など源氏の君の足元にも寄れるような立場ではないと思われて、このような話を聞くのも心苦しいと思い悩むのでした。

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