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紫がたり 令和源氏物語 第三百五十話 若菜・下(十六)

 若菜・下(十六)
 
翌日の六条院の朝はどちらの御殿でも遅いようでした。
あれほどの楽が風に乗って流れてくるもので、腕に覚えのある女房ならば寝ずに耳を傾けていたことでしょう。
この院に仕える人たちはみな教養を備え、情趣を解する者ばかりなので、心に浮かぶままに歌を詠みあったりして春の宵を楽しんだもようです。
ましてや楽の主役であった女君たちはほどよい疲れと高揚感で心地よい眠りに誘われたに違いありません。

陽も中天まで昇ってから起きた源氏は紫の上に尋ねました。
「昨夜は女三の宮の元で随分とおしゃべりが弾んだようだね」
「ええ、宮さまが本当にお上手になられたのがうれしくて」
「そうだろう。私の努力も報われたというものだ。あなたの和琴もたいしたものだったな。あなたが小さい頃には私は忙しくてなかなか手解きできなかったのに、一人で上達してしまったようだね。夕霧が褒めちぎっていたよ」
「まぁ・・・」
紫の上は口元にうっすらと笑みを浮かべました。
その艶やかな姿、宮にまで気を配る優しさに慈しむ心の豊かさ、これほどの女人は他にいまいと今の源氏にはわかります。
例え身分がこの上なく高い皇女でさえ紫の上ほどの人はいないでしょう。
こうした人は得てして長くは生きられないとよく言われます。
天があらゆる才を与えた人はその代りに寿命が短いのだとか。
ふとそんな嫌な予感が過ぎり、この人は今年厄年であったよ、あの藤壺の女院が亡くなった年齢ではないか、と源氏ははたと気付きました。
「そうだ、あなたは厄年ではないか。あちこち世話をやいて忙しいのはよくわかりますが、ちゃんと祈祷などをして身を浄めなければいけないよ」
源氏はこの人が儚くなるようなことがあってはならない、と肉親との縁薄かった身の上を辛く思い返しました。
「私は多くの方々と死に別れてきたものだ。物心つく前に母が亡くなっているので覚えてもいないし、血を分けた兄弟もいない(同腹の兄弟ということ)。父院も若いうちに亡くして、自分だけが生き残っているのが不思議なくらいだよ。それともその不幸のおかげで長らえているのかな。それを思うと御身は幸せであるよ、こうして親元にあるように気楽に暮らしていられるのだから。入内などということになるとたいそうな気苦労でしょうからね。女同士の争いは恐ろしいですよ。私の母もそれで命をすり減らしてしまったようですから。女三の宮の降嫁という些細なことはありましたが、あなたへの愛が変わっていないのはおわかりでしょう?」
わたくしが気楽に生きているとこの方はおっしゃるのか、紫の上は源氏の何も知らぬ心に悲しくなりました。
「そうですわね、わたくしのようなつまらぬ身には過ぎた幸せかもしれません」
「そうであろう。あなたにはこれからも元気でいてもらいたいので、ちゃんと潔斎などをしておきなさい」
紫の上は俯く。
再び願いを告げようかと逡巡し、物想うような横顔は悩ましげで美しい。
「ねぇ、あなた。女三の宮さまはきっとよい北の方になられますわ。わたくしはどうにも長く生きられないような気がいたしますの。厄年というのも心細く思いますので、どうか以前申し上げました出家のことを御許し下さい」
源氏は胸を抉られるような痛みを感じ、悲痛に顔を歪めました。
「なんと悲しいこと。これから先もずっとあなたと過ごしていきたいというこの私を捨てようというのか。あなたは私の半身なのですよ。それが死んだら私とて生きてはゆけない。ね、わかるだろう。私達の絆はそんなに簡単に切れるものではないのだよ」
源氏は紫の上に縋るようにその体を抱きしめました。
「あなたはずっと私を見ていなくてはいけないよ。そして私の愛が真のものであることを知らなくてはならない」
紫の上は源氏の身勝手な言い分と自由になれない悲しみに涙がこぼれました。
元に戻らぬほどにこの心を傷つけておきながら、せめて願ったことまで摘み取ろうという、わたくしは死ぬまでこの男から逃れられぬのか。
そう思うだけで生きる力さえも身体から抜けていくように感じられる紫の上です。
源氏はどんなに言葉を尽くしてももうこの人に自分の声は届かないのか、そう思うと虚しく、それでもこちらに向いてもらおうとあれやこれやと慰めるのでした。

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