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紫がたり 令和源氏物語 第三百五十一話 若菜・下(十七)

 若菜・下(十七)
 
「ねぇ、上よ。私達が特別な絆で結ばれているというのまで否定しないでくださいよ。あなたは私にとって他には変えられない人なのだから。女三の宮を娶ってもあなたへの愛は変わるどころではなく、却ってあなたほどの人はいないと思い知らされて、愛は以前よりも強まるばかりですよ」
“愛”とこの人は口にするが、本当に愛をご存知なのか?
これは紫の上がかねてから源氏に問いたかったことなのです。
しかしそれを口にしてはならないような気がして、上はまたじっと涙を流し続けます。
「どうしたらこの気持ちがわかってもらえるのだろう」
源氏も泣いておりました。
その涙がはらはらとこぼれるのをせつなく見つめる紫の上ですが、今はただ望みが叶えられないことに打ちひしがれております。
源氏は紫の上の存在が消えてしまわぬようにと強く抱きしめるのですが、力なくなよなよと手ごたえを感じません。まるでそのまま消えてしまうのではないかという恐れが胸の裡いっぱいに広がるのです。
どれほどそうして二人で泣き続けたでしょうか。
源氏は紫の上に語りかけました。
「あなたが小さい頃に出掛けようとする私にまつわって寂しがって泣いたことを覚えているかい?あの時のあなたの世界には私だけだったはずだ。それは今も変わらないね?」
紫の上が頼れるのはこの源氏だけ。
拐かされるように連れてこられそのようにさせたのはこの人であるものを。
しかしながら父に引き取られ母を虐め殺した継母の元で幸せになれたかどうか、今となっては言っても仕方のないことです。
生活することに困らないのは幸せなことで人も羨む身分ではありますが、なんと情けない身の上であろうかと紫の上は思わずにはいられません。
結局この男のためだけにこの身は生かされ、死ぬまで魂の自由さえもないのです。
今更それを思い知ったからとてどうにもならないのですが、そんな紫の上の心裡を知らず、源氏はまたいつものように過去の女たちの話を始めました。
「私もそれほどたくさんの女人と関わりをもったというほどではないですが、相性が合って心から安らげる相手というのはそうそうみつからないものです。最初に結婚した夕霧の母・葵は優れた美しい人でしたが、気位が高くて打ち解けないままに亡くなってしまいました。几帳面な性格で妻としては完璧でしたが、くつろぐことができない感じが惜しく思われたものです。そして秋好中宮の母である御息所こそは真の貴婦人であらせられ愛情深い御方でしたが、気難しくてこちらも一緒にいると気詰まりするような、若い私には些か重たい存在でした。至らぬ私を恨まれるのも最もなことで、せめてもの罪滅ぼしに中宮を心からお世話したのですよ。明石の上はさほどの身分ではないので最初は軽くみていましたが、分を弁えながら芯の強い女人です。しかしやはりどこを見回してもあなたほどの人はいないと思うのですよ。機嫌を損ねるとすぐに顔に出るのはいただけないが、素直でそんなところも私好みかな」
などと、源氏がいつもの調子で言うのがさすがに憎めない様子なのです。
「わたくしはそんな子供のような真似は致しません。陽も暮れますわ。宮さまにはまだお褒めの言葉をおっしゃっていないのでしょう?あちらにお渡りになって労ってさしあげて。きっと喜びますわ」
「あなたがそう言うならば宮へお祝いを申し上げに行こう」
そうして源氏は紫の上がいつものようであるのに安堵すると東の対を後にしました。
思えば源氏は昔から他の女人のことを紫の上に漏らすようなことがありました。それはあなただからこそ、あなたにしか告げないことなのですよ、という信頼と愛情の表れらしいのですが、女である紫の上には大層聞きづらく、御方がたに申し訳ないという気持ちがあるのです。
男と女の考え方はこれほど違うのものを、それがなかなかおわかりにならない。
なんとも相容れぬものなのでした。

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