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紫がたり 令和源氏物語 第三百五十二話 若菜・下(十八)

 若菜・下(十八)
 
源氏は明るくいつもの様子で紫の上に背を向けましたが、実の処穏やかであるはずがありません。
なにしろ紫の上とは人生の半分近くを共にしているので、此度の申し出が心からの願いであることに気付かぬわけがないのです。
たとえ紫の上に恨まれても彼女を失うことは今の源氏にはできません。
それは魂を二つに分かつも等しい耐えがたいものなのです。
なんとか考え直してくれればよいのだが、そう気を取り直して女三の宮の元へ渡られました。
女三の宮は自信をつけたのか、さらに熱心に琴の修練に勤しんでおられました。
「宮は本当に上達されましたね。紫の上がそれはもう感心しておりました」
「はい。昨夜はとても褒めていただきました。わたくしはもっと上手になりたいですわ」
源氏はおや、と目を瞠りました。
今まで人形のようにしか思っておりませんでしたが、意欲を見せられるとはよい傾向であります。
「まぁ、あまり根をつめても疲れてしまいますよ。師匠として私も鼻が高うございました。今日はお休みということに致しましょう」
そうして源氏は優しく宮を引き寄せたのでした。
 
紫の上は源氏があちらに渡られている時には女房に物語などを読ませて夜を過ごしております。
物思いしている素振りでも見せればみなが心配するからなのですが、この宵ばかりはいろいろと考えずにはいられません。
かつて少女であった頃から紫の上は源氏の心の奥に住む女人の存在を感じ取っておりました。上に笑いかける顔もその御方へ向けられているようで、女人はこうあるべき、こう振る舞った方がよい、というのも具体的に誰かを思い浮べるように説かれたものです。
鋭敏な勘を持つ賢い紫の上がそのことに気付かぬはずがないでしょう。
自分はその御方の形代にすぎないと思うたびに空虚感に苛まれ、自身の存在の不安定さに慄き、何度となく悩んできたものです。
紫の上には源氏しか頼る者がありませんでした。
源氏が言ったように上の世界には源氏ただ一人、源氏のことだけを思い今の自分が出来上がったのです。
人に優れていると言われても、さらにそうあらねばと努力し、源氏の望むような女人であろうと自らを偽る、本当の自分はどんな人間であるのか、ついぞわからなくなりました。
わたくしはなんとからっぽな器であるのか、今更ながら自嘲の笑みが込み上げてくる紫の上です。
源氏が他の女人に心を移すたびに踏みにじられ、その度に源氏は「あなたを一番愛している」と誓いますが、その心は定まることはありませんでした。
そうして最高に身分の高い女三の宮ご降嫁という次第になったわけですが、それでも思った人とは違ったからとまたこちらに向いているだけのこと、そう感じられてなりません。
源氏のその御方に対する執着は並大抵なものではなく、新たな対象がみつかればまた追わずにはいられないでしょう。
いつまでも同じことを繰り返すうちにこの身は朽ちてゆくのだと悲しくて、出家することで源氏と離れ、初めて自分の人生を生きることが出来るのではないかと考えておりましたが、どうにもその願いは叶いそうにありません。
源氏が上の出家を拒むのはきっとその御方を想う縁(よすが)を失うという惧れからなのでしょう。
紫の上にはもうそのようにしか考えられず、源氏が自分を愛しているなど錯覚にすぎないのだと悟っております。
もう死ぬことでしかわたくしは解放されぬのか、嘆くほどに暗い翳りが闇から立ち込めてくるようです。

人の思いというものは強く、その存在を支える要ですが、それは逆に望みを失った時には陰のものにつけ込まれやすくなるということです。
悪意のある何者かが忍び寄るとすれば、今の上には防ぐ手立てはないのでした。

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