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紫がたり 令和源氏物語 第三百九十四話 鈴虫(三)

 鈴虫(三)
 
山の院(朱雀院)は源氏を慮り、女三の宮に移譲した三条邸へ宮を移されるよう進言されましたが、未練を残した源氏にはそれを素直に受け入れることができません。
「現世での夫婦の縁が切れたからと申しましても、後見として宮の御世話をさせていただきます」
そう固辞するのを、院は源氏らしい律儀な姿勢であるとありがたく思いましたが、よもや未だに仏罰を蒙るような下心があるとは考えられぬようです。
朱雀院のご意向は辞退させていただきましたが、三条邸はいずれ女三の宮から薫に引き継がれるものとなる邸です。
源氏は三条邸を院が望まれる以上に立派に修繕し、そこには朱雀院から譲られた御物や宝物を管理させ、女三の宮の所領から上がってくる貢物などを納めさせました。
これすべて先々生い立つ薫の為の準備なのでした。
 
そうして源氏は山里を慕う宮の為に御殿の庭を山野から取り寄せた樹木が自然に任せるままに生えた風に造作させ、秋の気配が近づく頃には野の虫を数多く放ちました。
さながらそこは山野をそのまま持ってきた箱庭のようで、自然のものとは似て非なるもの。
深窓にかしずかれた宮に真の山住いなどは到底出来まいという源氏の配慮ですが、隅々にまで気を配ってある住みやすい箱庭のような邸に甘んじるその御姿が、所詮は囲まれた檻から出られぬ頼りなさで、やはり哀しく感じられのは、私が女だからでしょうか。
 
中秋の十五夜に源氏は女三の宮と虫の音を愛でつつ月を眺めようと東の対に渡りました。
日暮れ前に渡る風は黄金色に輝き、そこかしこの草蔭からは虫の声が響き合います。
まるで身一つで山野にあるような錯覚をおぼえ、こんな時に源氏は人はみな一人であると寂寥感を禁じ得ないのです。
じっと目を瞑って虫の声に耳を傾けるその佇まいは神々しく一幅の絵のように美しい。
女三の宮はかつて夫であったその人をせつなく見つめておられます。
「まるで空から降り注ぐような虫の音ですね」
夕陽に照り映える源氏の面は穏やかなで、宮は再びこのように静かに語らう日が来るとは思ってもいませんでした。
しかし二人はすでに夫婦ではなく、生きる世界も違うのです。
「秋の虫はどれも素晴らしいものですが、その昔あなたの伯母である藤壺の中宮は松虫をことさらに愛でられ、遠い野辺から取り寄せた虫を庭に放たれたことがありました。松虫は松にちなんで長命かと思いきや、あながちそうでもない印象がありますよ。私は華やかな鈴虫の音の方が可愛らしく思われますね」
それを受けて宮もそのように思われたのでしょう。
 
大方の秋をば憂しとは知りにしを
     ふり捨てがたき鈴虫の声
(秋<飽き>が辛いことだと思い知り、世を捨てたわたくしですが、鈴虫の声には未練が残ります)
 
源氏はこのように宮が詠んだことに感心しておりました。
「飽きたなどと、鈴虫(女三の宮)の方が逃げてしまったと私は考えていますがね」
 
心もて草のやどりを厭へども
    なほ鈴虫の声ぞふりせぬ
(鈴虫<宮>が逃げて<出家>しまいましたが、私はそれでも鈴虫の声を思い切ることが出来ないのです)
 
宮は少し困ったように顔を歪め、首を傾けると尼削ぎの髪がさらりと零れ落ちました。
人はみな一人、そう感じた秋の夕べにこれ以上艶めかしいことは控えるべきである、と源氏はその情念を胸の奥に押し込めて琴の琴を引き寄せると爪弾き始めました。
静かな旋律は風に乗って夕日に吸い込まれるようで、宮は数珠を繰るのも忘れてその清しい調べに聞き入るのでした。

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