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紫がたり 令和源氏物語 第四百二十五話 御法(三)

 御法(三)
 
待望の法要は終わりましたが、紫の上は精根尽きたように寝付いてしまいました。
大仕事を成し遂げた安堵感はありましたが、夜通し気を張った疲労でふつりと緊張の糸が解けたように眠り続けているのです。
源氏はそんな紫の上を優しい目で見守り、片時も側から離れようとはしません。
その邪気のない美しい眠り顔を見つめると、源氏の胸はちくりと痛みます。
それは幾度懇願されても出家を許せないでいる申し訳なさゆえのもの。
いずれは源氏自身も仏門に帰依して勤行したいとは考えておりますが、それは現世との、ひいてはこの紫の上との別れを意味するのです。
一緒に世を捨てて、いずれは御仏の導きで後の世に共に生まれたいと願うのですが、上だけを先に行かせることが源氏にはどうしてもできません。
今まで多くを望まなかったこの人が、唯一心から出家を願っている。
しかし私はこれから先この人を見ずに過ごすことができようか。
源氏は己の心の弱さを恥じて紫の上に申し訳なく思っているのでした。

二、三日ほどして紫の上が目覚めると、源氏は側の柱に背中を預けてまどろんでおりました。
その少し背中を丸めて寄りかかる様子は若い頃とは何も変わらないようですが、経た歳月は確実にその面に刻まれているのです。
紫の上は源氏が愛おしくてくすりと小さく笑いました。
その気配に源氏は目を覚まします。
「おや、ついうたた寝をしてしまったよ。あなたも目覚めたのだね」
「はい」
「なにが可笑しいのかな?」
「あなたったらその柱に寄りかかる癖は相変わらずですのね」
「なに長年の習慣というのはそうそう変わらぬものであるよ。それより水を少し飲んだらどうかね?喉が渇いただろう」
「はい」
紫の上がゆっくりと体を起こしてそれを源氏が支えながら手ずから水を飲ませるのを紫の上の乳母・少納言の君はこれほどの夫婦愛はそうはあるまいと涙が込み上げて胸が熱くなります。
源氏は院とも呼ばれ退位した天皇にも等しく扱われる天下人であります。
政治から身を引いても世間から尊敬され、重々しく扱われている尊い御方が少納言にとってかけがえのない姫君をこうも大切に扱ってくれるのがありがたいのです。
源氏はもう初老をとうに越えておりますが、その姿は若々しく、昔よりも落ち着き、円熟した男の魅力に溢れております。
紫の上の類まれな麗しさもあいまってこれほどの似合いの夫婦が他にありましょうか。
少納言の君はどうぞこの幸せな光景が一日でも長く続きますように、と神仏に祈らずにはいられないのでした。

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