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紫がたり 令和源氏物語 第六十六話 葵(九)

 葵(九) 

御息所がうなされるように目を覚ますと、辺りは暮色に包まれておりました。
また悪しき夢を見ていたようです。
深い溜息をつくと、御息所は嗅ぎなれない薫りが衣に染み付いていることに気付きました。
甘いような、気怠いような・・・、それはご祈祷に焚かれる芥子の香りのようでした。
一体どこでこのような匂いが染み付いてきたというのでしょう。
御息所は気味が悪くて装束を一揃え着替えて、髪まで洗いましたが、一向に匂いは取れません。
それは現身ではなく魂に染み付いた薫りなので消されるはずはないのです。
「ああ、なんとあさましいことか」
すべてを悟り、御息所は己の罪深さを嘆きました。

物の怪が離れた葵の上は無事に若君を産み落としました。
源氏に良く似た美しい赤子の、清らかで穢れの無い様子はすでに他の子供とは違うように思われます。
そうして『夕霧』という美しい名を与えられました。
後産を心配した左大臣でしたが、葵の上は疲労しているもののいつもの様子に戻ったようなので、邸中がお祝いムードに浮き立ちました。
葵の上を心配していた桐壺院からは早速祝いの品々が届けられ、親王、公達からも続々と祝いの品が届きます。
左大臣、三位の中将(かつての頭の中将)も安心したようで、おめでたい宴が毎晩開かれました。

数日後、内裏にて秋の司召(つかさめし=官職を任命すること)が発表されるということで、左大臣、三位の中将、源氏は揃って参内することになりました。
源氏は葵の上の元を訪れ、優しく声をかけました。
「お顔の色がいいようですね。その分なら安心だ」
葵の上は清らかな笑みを返しました。
「あなたが苦しんでいる時は、もう駄目かと思っていろいろなことを後悔しましたよ。そして改めてあなたの存在の大きさを思い知りました。私はあなたを愛しているのです」
源氏の告白に葵の上は、頬を染めて、
「息も絶えそうだったあの時、“葵”と呼んで励まして下さいましたわね。あなたのお顔を見ると安心して、うれしゅうございました」
初めて素直に自分の気持ちを打ち明けました。
「私達は意地の張り合いばかりで大切な時を無駄にしてしまった。これからは仲良くなんでも語り合っていこう」
「はい」
「あまり無理をさせてはいけないな。では、内裏へ行ってくるよ」
「いってらっしゃいまし」
葵の上は気品に満ちた佇まいで愛情をもって夫を見送りました。
その優しげな様子に源氏は初めて葵の上という女性に触れた気がしました。

左大臣たちが出かけた後、葵の上はぼんやりと庭の前栽を眺めておりました。
空は秋特有の抜けるような青さでさわやかな風が吹き抜けていきます。
穏やかな心で眺める世界はなんと美しく感じることでしょう。
白や黄色の菊の花が可憐で、側に控えていた女房に数本手折ってくるよう命じました。

ところが女房が席を外すと、急に胸が咳き上げるように苦しくなり、葵の上は夜具の上に倒れ伏しました。
「あなた・・・」
ようやく本当の夫婦となろうとしていた愛しい夫を呼び、遺して逝く子供に思いを馳せながら葵の上は涙を流しました。

戻ってきた女房は驚いて人を呼びましたが、すでに葵の上はこと切れていたのでした。

次のお話はこちら・・・


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