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令和源氏物語 宇治の恋華 第十九話

 第十九話 橋姫(七)
 
兄・夕霧の御前を辞して、階から車に乗り込もうとした薫はふと足を留めました。
夕闇に染まる空に鳥の番が渡るのを山の寝床へ帰るのであろうか、と羨ましく思われるのです。あの小鳥でさえ帰る場所があるものを己には身の置くべき場所も見当たらぬ、そう思うと世が空しくて孤独感に苛まれる君なのです。
 
夕霧から聞かされた話は薫に大きな衝撃を与えました。
泰平とばかりに思っていた世に愛憎の歴史があろうとは。
しかも父・源氏を追い落とそうとしたのは母方(女三の宮は朱雀院の娘)の血縁である弘徽殿皇后とその父であったとは。
「兄上、人はなぜ憎しみあうのでしょう」
「それはなぁ、そこに愛があるからに他なるまい。愛があるから人は憎しむのだよ。愛することと憎しむことは根が同じなのだ」
いまだ愛を知らぬ薫には夕霧の言わんとすることがぼんやりとしか理解できません。しかし桐壺帝の愛を得られなかった弘徽殿皇后が恋敵を憎み、その子である源氏をも憎んだことが大きな政争へ結びついたのだということはよくわかりました。
そしてその為に八の宮は世から隠れるように暮らさなければならなかったということも。
薫は阿闍梨に宮への取次をお願いしたことを後悔しておりました。
宮を追い込んだ弘徽殿女御を血縁に持ち、源氏を父とする自分が快く思われるはずがあるまい。
仏道修行に邁進される御仁の御心を乱しただけではあるまいか。
今更にどのような顔をして宮にお会いすることができようか、と。
 
その夜、薫は八の宮へ手紙をしたためました。
何も知らずにいたことへのお詫びとぶしつけにも阿闍梨に仲介を頼んだことなど、誠心誠意をこめて連綿と綴ったのです。
八の宮はその手紙を受け取り、怒りどころか薫中将が自分の身の上のことまでを知ろうとして過去の事情を知る方をわざわざ尋ねてくれたのだと思うと不思議な感動をおぼえられたのでした。
どんなに世を辛いものと背を向けても己の存在が忘れ去られてしまう悲しみは孤独よりも耐えがたいものなのです。人は生まれてその生きた証を刻むように子を残すものですが、その子までが宇治で埋もれているとなれば先には光も見えません。
このように気に懸けてもらえることがありがたく胸に沁み入るのです。
そして当代一と言われる貴公子の生真面目で実直な人柄に強く打たれたのでした。
宮はすべて過ぎ去った日のことと、御仏の前では皆等しく同じ弟子である、という旨の手紙を薫君に送りました。
それが薫にもありがたくて、すでに心の裡では師と仰ぐようになりました。
それからは幾度となく書簡をやりとりし、薫がそれとなく心遣いを見せるもので、宮の生活は少しずつ豊かになってゆくのでした。
八の宮との書簡のやりとりは薫に癒しを与えました。
仏弟子らしく飾り気のない紙に流麗な御手跡。
まるで気取ったところのないのがお人柄を素直に表しているように思われます。
そして宇治の自然を肌で感じるような情趣ある言の葉が薫を山里へと誘うのです。

四月が終わり、そろそろ日差しが強くなり始めた頃、宮から嬉しいお誘いの文が届きました。
宇治の山里でもよい気候となりましたので薫中将を山川の幸でおもてなししたいという八の宮の粋な趣向なのです。
薫は実際に宮にお会いできると嬉しくて、すぐに承諾の返事を書きました。
 
そうして五月の中頃になると宇治へ赴いたのです。
薫はこの日が楽しみで、楽しみで、前夜には装束を選ぶのに頭を悩ませました。
女人に逢いにいくわけでもあるまいにこれほど心が弾むとは、知らずにこぼれる笑みを禁じ得ません。
薫は山野の新芽を思わせるような萌黄の直衣を選びました。
下襲は抑えた落ち着いた色合いで。
普通のお洒落な貴族の殿方はここから香を焚き染めるよう女房たちに命じるものですが、薫る中将はさらに香気が高まるのを厭うておりますのであえてそのようにはしないのです。
翌日ゆるゆると牛車に揺られ、京の外れにさしかかる辺りからは景色も一変してきました。
青々とした木々を揺らす風も爽やかで、さわさわと響く葉擦れがじつに心地よいものです。
日頃宮中で難しい顔をしながら執務にあたる薫にはちょっとした羽延ばしの小旅行のように感じるのでした。
「殿、右手をご覧になってください。鮮やかな雉がおりますぞ」
随人の囁きに目を転じると、若い雄雉がこちらの様子を伺っておりました。その艶やかな尾羽が美しく、堂々とした態度は風格さえ感じられます。
「射って獲りましょうか。宮さまへのよい土産になりましょう」
「やめておけ、無益な殺生ぞ。宮さまへの贈り物ならばすでに用意してあるではないか」
雉はこちらの言葉を解するように、ゆうゆうと山の奥へと消えてゆきました。
車が進んでゆくと川のせせらぐ音が山間に響くように聞こえて、薫は側近の惟成を呼び寄せました。
この者は幼い頃から薫に仕えておりましたので、いつ何時でも薫の傍を離れない腹心の部下なのです。
「宮さまのお住まいはもう近いかな?」
「は、ほどなく到着致しましょう」
御簾を引き上げさせると山つつじが咲き乱れる美しい風景が現われました。
花の蜜の香がほのかに甘く漂ってきます。
すぐ下には宇治川の清い流れが陽光を反射してちらちらと輝いておりました。
「なんとも趣のあることよ。ここまで来なければこのような景色には出会えぬのだな」
「さようでございますなぁ。殿、宮さまのお住まいはもう見えておりますよ。あちらの川を挟んだ向こう岸には夕霧の左大臣さまの別荘がご覧になれますでしょう」
「おお、兄上のお邸か。何かあれば使わせていただくのにちょうどよいな」
そういう間にも車は八の宮のお住まいになる山荘へと着きました。
なるほど宮さまらしいお住まいである、と薫が感じたのは自然と調和して小柴垣を巡らせた庵のようなお住まいであったからです。
どことのう修行を志す隠遁者が住まうには相応しい、飾り気のない邸なのでした。

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