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令和源氏物語 宇治の恋華 第八十二話

 第八十二話  うしなった愛(十五)
 
阿闍梨の尊い読経を遠くに聞いて大君がうっすらと目を開けると、すぐ傍ら、御簾の向こうに姿勢を正したまま眠る薫君の姿が見えました。
端正な美しい顔立ちは精悍に引き締まり、君から漂う芳しい薫りと僧侶たちが焚く香が混ざり合い、まるで極楽浄土かと思われるほどの尊さです。
大君は生まれてこのかた殿方といえば亡き父宮しか知らずに生きてきましたが、それでもこの薫君の有様が並大抵ではないということは初めてお会いした時からそれとわかりました。
世間やこの邸の女房たちは身分などの表面的なことに捉われて匂宮の方が尊いように噂しますが、この薫君ほど女人の気持ちを尊重する優しさ、意志の強い男らしさを持ちあわせている御方はいないでしょう。
なんの匂宮なぞ足元にも及ぼうか。
このような君が自分を想ってくださるなんて大君には過ぎたことと思われてなりません。
薫君が自分を案じて魂を地に繋ぎとめようと祈りを奉げられている、公務もそっちのけで宿直してくださるのがありがたく、女人としてこれほど想われれば本望であるとさえ感じるのです。
先日までは匂宮の不実を恨んで中君が不憫と嘆き、いつこの世を去るようなことになっても惜しくはないと考えていたものが、薫君の励ましでこの身が惜しく思われるのも不思議なもので。
今しばらく永らえれば薫君に本当の気持ちを伝え合うことができるやもしれぬ、人と人が愛し合うということはただ湧き上がる愛情に身を委ねればそれでよいのだ、そう今の大君には理解できるのでした。
 
明け方、薫君はほんの少し座を立ちました。
弁の御許に大君がこのようになられた経緯を聞こうと思ってのことです。
「弁、おるか?」
「はい、こちらに」
「此の度の大君さまの御病気なのだが、やはり匂宮の夜離れが原因であろうか?」
「わたくしにはそのように思われてなりません。なにしろ大君さまは姉というよりも親のような御心で中君さまを大切になすってきたのですもの。ですから自身の御心を殺してまで薫さまに娶っていただきたいという意志を示されたのですわ。宮さまがそうそうお越しになれないのは承知しておられましたが、あの紅葉の遊行で御姿を垣間見たのも逆に恨めしく思われたようでございます。思えばその翌日あたりから考え込む御姿が目立つようになられました。食事もあまりお取りにならずにおやつれになって。大君さまは中君さまを不安にさせぬようあえて宮さまの話題をなさりませんでしたが、そうとう悩まれていたと思いますよ」
「やはりそういうことであったか。私も迂闊だった。宮が来れなくとも私が参上して宮の内裏でのご様子などを逐一報告しておればここまで思い詰めることもなかったであろうに」
「薫さまとて忙しい御身でしょうに」
「いや、私の落ち度だ。弁、匂宮にも話してあるのだが、やはり大君、中君揃って私の三条の邸にお移りいただこうと思うのだ。宮さまとて大君さまの御病気を心配していられるし、何より中君にお逢いできないのが可哀そうで私も見ていて辛くなるほどに嘆かれていられる」
「まぁ、そのようなお話が進んでおりましたの。たしかに姫君たちにとってはその方がよいかもしれませぬ」
「そうであろう。大君の容体が安定したらお移しできるよう私のほうで準備をするから、よい頃合いを見計らって私に知らせて欲しいのだよ」
「承知いたしましたわ。やっと姫さまたちがお二人揃ってお幸せになれるのですわねぇ」
老い女房もようやくと感慨深く、目を潤ませるのでした。
「弁、頼んだぞ。私は大君の様子を見てから京へ戻るとしよう」
「かしこまりました」
大君はもう目を覚ましておりました。
「大君さま、お目覚めですか?薫さまがご挨拶をと仰せになっておられます」
「まだ気分は優れませんが、昨日のように御簾の側に君をご案内してさしあげて」
弱々しくも大君がはっきりと答えを返されたので、弁もほっと胸を撫で下ろしました。
「大君さま、ずっとお側についておりたいのですが、何しろご姉妹を迎える支度をせねばなりません。今弁にもそのことを話しておりました。もうあなたがどれほど頑迷に否と首を振っても京にお連れいたしますからね。そうでなければ私が安心できません。近くにお越しいただければ間諜のごとく匂宮の挙動を毎日報告いたしますよ」
「薫さまったら」
大君は弱々しくも笑んで応えます。
「もうすぐのことですからあなたはそれまでに体調を整えてくださいね。これもすべて中君の御為ですよ」
「ご後見にそう仰られては従わなくてはなりませんわね」
「では近いうちに必ず」
「はい」
薫には大君が俄かに前向きになったように思われて、回復も近いのではないかという望みが見えるようでした。
何より大君が京行きを承諾してくれたことが嬉しいのでした。

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