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紫がたり 令和源氏物語 第四百十三話 夕霧(十六)

 夕霧(十六)
 
小野の山里はしばらく来ぬ間にずいぶんと様相が変わっておりました。
吹き渡る風には冷気が宿り、叢の虫たちが鳴き弱っているのがいかにも寂しげに感じられます。
響き渡る読経の声に夕霧の君はふと足を止めて御息所の冥福を祈る。
まだ夏の直衣であるので夕陽が透けて紅色の濃い下襲がなんともつややかで、扇でつと顔を隠される姿は美しい佇まいであります。
京が恋しい女房たちはこの貴公子に心を慰められる思いで、このように立派な方が宮さまの背となられたらどれほどありがたいことか、と願わずにはいられません。
しかし宮の態度は相変わらずつれなく、夕霧はがっくりと肩を落として三条邸へと帰宅したのでした。
 
三条邸の女房たちは夕霧が夜遅くに戻って来たのを快く思わぬでしょう。
「これまで品行方正と言われていたのに忍び歩きとは見苦しいですわね」
「雲居雁さまの御心裡を思うと、あのしらりとした御顔も憎らしいですわ」
などと、聞こえんばかりに噂しあいますが、当の夕霧はそのような悪口も耳に入らぬように惚けて月を眺めております。
折しも十三夜の月は明るく闇夜を照らし、夕霧はこの月を宮も愛でられているだろうか、と心は小野に残してきたようで、雲居雁はそんな夫の姿を見るのが辛くてならないのでした。
この二人はしばらく口をきいておりません。
その宵も雲居雁が先に床に就き、背中合わせに眠るのが近頃の習慣のようになっており、以前のように眠りに落ちるまで語らうということもなくなっていたのです。
雲居雁は声を殺して泣いておりましたが、夕霧はそれに気付きません。
まんじりともしない夜を明かし、陽が昇ったと思うと夕霧はすぐに女二の宮への文をしたためようと心ここにあらずの様子。
宮を想って詠む歌を口に出しているとも気付かずに、心はすでに小野の山里へ飛んでようで、雲居雁は自分の耳を塞ぎたく逃げるように寝所を出ましたが、夫はそんな彼女に配慮することもないのです。
筒井筒の二人は空気のように慣れ親しんで遠慮がないとは言いますが、それも良し悪し、夕霧は妻を無遠慮でずうずうしいと罵りますが、雲居雁にしてみればこのような夫の姿は見たくないというもの。
二人の間には実際の距離よりも大きな隔たりができているのでした。
 
夕霧と女二の宮の噂はもちろん源氏の耳にも届いていて、父としては息子が心配でなりませんでした。
なにしろあの致仕太政大臣(雲居雁の父)は依怙地なところがあるので、話がこじれるとどうにも手に負えなくなる御仁だからです。
今まで品行方正で自分の業を息子が雪いでくれているように誇らしく思っていた源氏には、此度の噂が信じられません。
そう心に懸けているところに夕霧が伺候したもので、何気なく聞きだそうと思うのですが、何分デリケートな懸案ですので、どう水を向けてよいのやら・・・。
それでも源氏は夕霧に問いました。
「そういえば一条の御息所の七七日はもう済んだのかね?」
「は、大和守が取り仕切っておるようですが」
夕霧はあくまで慎重でぴりぴりと張りつめた空気が伝わってきます。
これは相当警戒をしているな、と感じるものの、ずばり宮との噂は真かと聞けぬ源氏であります。
「御息所は教養高い控えめな女人と聞きましたが、その秘蔵の女二の宮は朱雀院にとってもこちらの女三の宮についで可愛がられた姫宮であるので、お人柄もよろしいことであるだろう」
そのように話を持って行っても夕霧は硬い表情を崩しません。
「御息所は直に御声なども聞かせていただき、その物腰からも素晴らしい御方であるとはお見受けいたしましたが、宮の方はよくも存じません」
このように頑なであるものをこれ以上何を言えようか。
源氏はこの生真面目な息子が真剣に思い詰めているのを今さら何を言っても聞くことはあるまい、と口を噤みました。

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