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紫がたり 令和源氏物語 第四百一話 夕霧(四)

 夕霧(四)
 
夕霧は宮が困惑するのを感じ取るとすぐにまた打ち解けやすい顔を見せて近頃京で話題になっていることなどを語って聞かせます。
都を恋しく思う女房たちにはそれがまた何よりもの慰めとなりましょう。
御息所は宮が京に残られることを勧めましたが、長年親子二人で寄り添ってきたもので、その絆は深く、宮は頑迷に拒まれました。
御息所はその昔宮中にあった頃、秀でた才媛ぶりで朱雀院を魅了した人ですが、朧月夜の尚侍が入内してからは次第に影が薄くなったように打ち捨てられました。
さすがに皇女をもうけて御息所と尊ばれましたが、どこまでも運の無い女人で、愛娘は腹違いの妹の女三の宮に気圧されて、どうにも共に朱雀院の寵愛からは程遠い存在となったのです。
自分だけではなく娘までも辛い思いを舐めるとは、御息所はそれ以来院に頼ることもなく、誇り高く皇女の母としての矜持を保って生きてきました。
女二の宮に対しても厳しい躾をして世に軽んじられることのないよう、身を慎むように言い含めてきたのです。
それがかつての思わぬ降嫁のお話に動揺したことは言うまでもありません。
皇女という尊い身分の女性は世の好奇の的に晒されるべきではない、と御息所は考えていらっしゃったので、柏木との縁組にはよい顔をされませんでした。
しかし朱雀院の後押しと当時太政大臣であった柏木の父君の働きかけにほだされて、最後には首を縦に振るしかなかったのです。
元来あまり丈夫ではない身を鑑みると儚くなった後に宮はどうなられるであろう、そんな将来の不安もあったことでしょう。
そうして乞われての降嫁であったというのに柏木の君は冷淡で不遜な態度をとり続け、終いには御息所よりも儚く身罷ってしまったという、なんと運命の皮肉なことか。
御息所は物の怪に苛まれながらも、少しでも長らえてかわいい娘を守りたい、という一念でこの地上に魂を繋ぎとめておられるのでした。
日も入り方になるにつれ、辺りには濃い霧が立ち込め始めました。
山の夕陽は沈むのも早く、蜩(ひぐらし)が今はここまでとしきりに鳴いているのが哀れ深い、前栽の撫子が霧に霞んでゆくのを夕霧はじっと見つめておりました。
僧たちの唱える不断経がとめどなく流れ、打ち鳴らされる鐘の音が山の松に木霊する。
その風情は京では感じられない荘厳な趣で、まさに非日常、ここは妻にも知られぬ異界であるよ、と夕霧は恋に惑う心に目を塞がれました。
この機を逃しては宮に想いを告げる時はあるまい、と決意したのです。
 
山里のあはれを添ふる夕霧に
   たち出でむ空もなき心地して
(あわれを催さずにはいられない夕霧が立ち込めて、私は帰る気も起きないのですよ)
 
宮はまたもや困ったこと、と返しました。
 
山樵の籬(まがき)をこめて立つ霧も
     心そらなる人はとどめず
(山人の住む籬に立つ霧があなたを留めているなど、誰が信じましょうか)
 
体よくあしらおうというのか、と夕霧も意地になり、せめてここに留まろうと供の者たちを近くの荘園に行かせてしまいました。
「霧で家路も見つかりませんし、ここに宿らせていただくと致しましょう」
夕霧は腹をくくって御簾の前にどっかりと腰を据えました。
女二の宮は夕霧がこれまでこうした婀娜めいた様子など見せなかったものを心底困惑していらっしゃいます。
先刻から御息所がひどく患わされて側に控える女房もあちらへ行ってしまって人少なであるのに、よりにもよってこんな時にどうしてこのような仕打ちをなさるものか、と恨む気持ちで一杯なのです。
今更わざとらしく御息所のお部屋の方へ移るのも決まり悪く、宮は不用意に直接声などかけるべきではなかったと深く反省されました。
こうなれば断固とした姿勢を貫くまで、とこれより後は少しも気配を悟られぬようにと身じろぎひとつなさいません。
返事もろくろくいただけないのを情けなく思った夕霧は取次で御座所に入る女房に付いて御簾の内に滑り込んでしまいました。
女心をほぐそうというならば母君が患われているこのような時は相応しいはずではないものの、今の夕霧にはそこまで配慮することができないのでしょう。

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