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紫がたり 令和源氏物語 第五十五話 花宴(三)

 花宴(三)

「誰か・・・」
女が人を呼ぼうとするのを白い指で塞ぎ、
「人を呼んでも無駄ですよ。私は何をしても許される身分ですからね」
そう月影に笑む顔を見て、昼間御簾越しに垣間見た見た源氏の君であることを知りました。
あの美しい姿を思い返して女の心はくすぐられるようでした。
それでも簡単に靡いては、とその矜持が許しません。
「ずいぶんと自信がおありになるのね。めったなことを仰らない方が賢明ですわよ」
源氏はこの自我をしっかり持った女性に好感を抱きました。

さすが今上帝の愛息、ただ人となられても輝くばかりの美貌と若さに自信みなぎる様子は他の上達部とは違うものです。
しかしながらこの頃の源氏の君は些か驕っておられたようです。
「何をしても許される」などと、心裡では思っていても口に出すほどに愚かなことはないでしょう。
それは遠く中宮に上ってしまわれた藤壺の宮へのやるせない思いが自暴自棄にさせていたのかもしれません。
いずれにしろ政敵である右大臣のこの弘徽殿で、この出会いが後にどのような運命をもたらすものか、若き君には考えが及ばないのです。

朧月夜の姫は相手の正体がわかっていささか安心したものの、困った状況には変わりがありません。
月に誘われるように迂闊にも出てきたのは、このような恋を求める心が自分の中にあったからであろうか。
それにしても近くで見る源氏の君は美しく、何とも魅力的で、抗えないのは春の宵の魔力がそうさせるのか、と想い乱れます。
女の拒み通せずに柔らかく従う様が可愛らしく、若さと共に密かな情熱を感じ取った源氏はこの女を愛しく思いました。

「名前を教えてください。またお会いしたい」
源氏の囁きに、
「わたくしを愛しいと思ってくださるならば、必ずまた会えるはずですわ。わたくしを見つけてくださいな」
恋を受け入れた女はまっすぐと源氏の目を見つめて、咲きこぼれる花のように艶やかな笑みを浮かべました。
そうこうしているうちに女房達が起き始めて、弘徽殿女御をお迎えに上がらなければ、などと落ち着かないので、
「わかりました。では、お約束とこの春の夜の思い出に・・・」
源氏は自分の扇と女の扇を取り換えました。
「あなたを必ず見つけてみせる」
しなやかに身を翻した源氏の姿を見送りながら、女はぼんやりと自分の身に起きたことを反芻しておりました。
春風のようなこの出会いが自分にとってどのような結果をもたらすものか、私の恋はどこに行きつくのであろうか、現実感がまるでなく、心が中空を漂うように不確かなものなのでした。


桐壺へ戻った源氏は今別れてきたばかりの魅力的な女のことを想っておりました。
扇を開いてみると、桜の三重がさねに霞んだ月が銀泥でうっすらと描かれています。
桜の下の水面には花と月の影が映り、しみじみとした美しい扇です。
とりたてて素晴らしいというものではないものの、あの女人の持ち物に相応しい気がして、美しい人であったなぁ、と溜息がこぼれます。
彼女の衣装は女房のそれではありませんでした。
美しい文様に金・銀が織り込まれた上等なもので、右大臣の姫君であることは間違いありません。
弘徽殿女御には四人の妹姫がおありですが、そのうちの一人でしょう。
三の君は源氏の異母弟・帥(そち)の宮の北の方、四の君は頭中将の北の方です。
あの姫は生娘であったので、五の君か、六の君か・・・。
六の君であったならば東宮妃として入内する予定なので、大変なことになります。
あちらは犬猿の右大臣家の姫、どのように探し当てたらよいものか、と源氏はまたみずから播いた懊悩に煩わされるのでした。

次のお話はこちら・・・


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