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紫がたり 令和源氏物語 第百話 須磨(七)

 須磨(七)

源氏は家のこと一切を紫の上が仕切ることができるように土地家屋の権利証、財産の管理などに精通している信頼できる家司(けいし)を西の対に移しておりました。
そして忠実に仕えてくれた者達を集めて、それぞれに立派な品物を分け与え、さらにはできればこのまま紫の上の元に仕えてくれるよう説いて聞かせました。
みな源氏に恩のある者ばかりなので、涙をこぼさずにはいられません。
「みなで力を合わせて、どうか留守をよろしく頼みたい」
そうして尊い君が頭を下げられるので、西の対の御方様(紫の上)をお守りすることこそ恩義に報いることだとみな心を決めました。

その夜も更けた頃、源氏はもっとも大切な紫の上と語らいました。
「思えばあなたに一番申し訳ないことをしたね。この邸に初めてあなたを迎えた日に、ずっと離れずにあなたを一生お守りすると誓ったのに、それが叶わなくなってしまった」
「そんな悲しいことを仰らないで。まるで永遠にお別れするようで辛いお言葉ですわ。殿、離れていても御心はすぐお側にあるのですから、気を強くお持ちになってくださいませ」
「そうだね、私たちは身はふたつでも、心はいつもひとつだよ」
二人はそれまでの楽しかったことやいろいろな思い出話をして、慰め合いました。

源氏:生ける世の別れを知らで契りつつ
         命を人にかぎりけるかな
(あなたといると幸せばかりを噛みしめていたもので、生き別れるなどという悲しい現実があることを忘れてしまっていた。つい命のある限り二人は別たれることはないと約束してしまった私の浅はかさよ)

紫の上:惜しからぬ命にかえて目の前の
        別れをしばしとどめてしがな
(もしも叶うのであれば、私の命を差し出す代わりにこの時がもう少し続いてくれればよいのに)


源氏は出立前に春宮へ心をこめて手紙をしたためました。
春宮は八歳になられ、元から聡明でいらっしゃるので、この度の源氏の失脚を政事ゆえと察せられたようです。大変御心を痛められましたが、まだ力もない身ゆえにじっと悲しみをこらえておられるのです。
春宮の元でお仕えしていた王命婦も源氏が都を離れることを知り、歌を贈りました。
 
咲きてとく散るは憂けれど行く春は
        花の都を立ちかへり見よ
(花がすぐ散ってしまうのは悲しいですけれど、また巡ってくる春にはあなたもこの都に帰ってこられますように)

あの弘徽殿大后の手前、ひっそりと春宮殿は悲しみに暮れていくのでした。


勅勘を蒙った者が陽の元を歩くのは憚られるので、夜が明ける前に出立をせねばなりません。
「では、行ってくる」
簡素な狩衣を身につけ、振り切るように身を翻した源氏の背中は今まで見たことがないほどに寂しげでした。
「あなた、無事にお帰りになってね」
源氏は涙ぐみながら見送る愛しい妻を振り返りました。

 ああ、愛する人が泣いている・・・。

暁の月に照らされたその姿は例えようもなく高貴で美しく、せつない面影となって胸に焼きつきました。この瞬間はいつになっても忘れることのできないものとなるでしょう。
源氏二十六歳、悲しい春の旅立ちでした。

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