紫がたり 令和源氏物語 第三百二十七話 若菜・上(二十一)
若菜・上(二十一)
十月になり、紫の上は嵯峨野の御堂で薬師仏の供養をすることになりました。
源氏が四十の御賀をことごとく辞退するので、仰々しくではなく御仏の供養をするということで源氏の健康と長寿を祈るのです。
本来ならば正妻がこうしたものを司るべきですが、あの幼く頼りない姫宮にそんな差配をする才覚があろうはずもないのです。
これまで通り紫の上が主体となって執り行うこととなりました。
御仏の御供養なのでそれはしっかりと勤めたいと上は念入りに準備を進め、仏前の道具やお供え物などを立派に整えて荘厳な法要が営まれました。
それを聞いた冷泉帝はやはり心裡では父の御賀をこの手で、という思いもあったのですが、源氏がそれを受けてはくれません。
せめて六条院を訪れて祝いだけでも直接に述べたいと思召しても、
「帝の行幸などこの身には畏れ多く、世間を騒がせるようなことはお控え下さい」
そうあっさりと断られてしまいました。
そこで夕霧の中納言を名代としてささやかな御賀を祝うよう打診したのです。
やはりこうしたものは然るべきであると夕霧も考えていたもので、主上からの命であるならばなおのこと立派に催されるべきと受けました。
ちょうどその頃右大将が病気で職を辞したので、源氏のためにも慶賀に花を添えるが如くその任を夕霧に与えるようとりはかられたのです。
源氏は若輩の夕霧にと恐縮しましたが、素直に息子の昇進を嬉しく感じました。
家庭を持ち落ち着いたことで夕霧への世間の信頼は益々厚く、その若さで大将を務めるのに異議を唱える者などありません。
さすが源氏のお血筋は優れていると褒めそやすばかりです。
六条院にて直会の場はしつらえられましたが、太政大臣をはじめ左右大臣に親王方、ほとんどの殿上人が出席されることになったので源氏が言うように大仰ではなく、というのは無理なこと。源氏の御座や調度類は勅命をもって太政大臣が準備したので重厚で華々しいものとなっております。
帝からは御手ずから描かれた詩句の屏風四帖と御馬四十疋を賜りました。
屏風には帝ご自身のお手で歌などが書かれてあるのが珍しくも素晴らしいものであります。
馬寮(うまつかさ)や衛府の官人によって引き出された馬も名馬揃いで観賞している間にも時が過ぎてゆくのです。
祝い事の定番である万歳楽、賀王恩などの舞を、舞人が日頃の研鑽と披露すると、そのゆったりと翻る袖は刹那のようであり、永遠のようでもある。
「源氏よ、年をとるというのも悪くないものだな」
太政大臣の皺が刻まれた顔はそれでも昔のままのようです。
「たしかにこのように祝ってもらうのも悪くはない。しかし私は少し酒に弱くなったな。それでもこの酔い加減も心地よいものよ」
「何を言うのかと思えば、君は昔から捉えどころのない男であったよ。それでは心よりの祝いとして気合いを入れて奏でようか」
太政大臣のその言葉で楽が始まりました。
源氏の琴、太政大臣の和琴、兵部卿宮の琵琶など名手といわれる方々が得意の楽器を惜しみなく奏でられるのでその音色たるやこの世の響きとは思われません。
一時袂を別った源氏と太政大臣ですが、夕霧と雲居雁との結婚で益々深く結びついた親友同士です。
互いに目を合わせながら笑んで、競うように奏でられる。
まさに栄華を誇る晴れ晴れしい一門であるよ、と後の世にも伝えられるほどのご威勢ぶりなのでした。
十二月も残りわずかという頃には御宿下がりをされた秋好中宮による源氏四十の御賀が催され、それは勿論君の要望で控えめにという懇願はありましたが、多くの上達部が参集するにあたり、どうして控えめになりましょうか。
こうして源氏四十歳の年は御賀に始まり、御賀に暮れたのでした。
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