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紫がたり 令和源氏物語 第三百四十八話 若菜・下(十四)

 若菜・下(十四)
 
二十日の月は更待月と言われるほどに上るのが遅いのです。
夜が更けるにつれ空気が冷え込んできますが、興に乗った楽の遊びはまだまだ続き、ようやく月がその面を現しました。
ぼんやりと霞む風情がしみじみとして、花の香りに包まれた美しい宵であります。
「春の朧月夜というのは楽をするにはどうもねぇ。やはり秋の夜長に虫の声がまつわりながら楽しむ方が情趣があると思わないかね?」
源氏は側に控える夕霧に呼びかけました。
「秋の宵も結構ですが、このような朧に霞んだ月光に楽の音がまつわるのも優しげな情趣で格別でございます。秋の澄んだ空気には些か整いすぎと申しますか、思うままに奏でるには春の宵のほうが優れているように思われます」
夕霧はあの春の御方へ心寄せておりますので、どうしても春に味方をしてしまうようです。
「まぁ、春秋どちらが優れているかというのは古から物議を醸していることであるから、我々がとやかくいうのもおこがましいことだね。ともかく今宵の楽がこの上なく素晴らしいと思われるのは私の贔屓だろうか」
「なんの、父上。当代では柏木衛門督の和琴、兵部卿宮さまの琵琶が名手と誉高いですが、こちらの女君たちも引けをとりません。興にまかせて私などが唱歌を務めるのも気恥ずかしいかぎりで。近頃では赴くまま臨機応変に奏でられるのは致仕太政大臣のみかと思っておりましたが、紫の上さまの和琴は実に自由な魂を感じさせていただきました。素晴らしい御方ですね」
「なんと大将の君にこれほど褒められたと知れば紫の上も喜ぶであろう。明石の琵琶もそうだが、まさに天分と言えるかな。まぁ、師匠としては弟子が褒められるのは悪くない気分だね」
などと、面白く語らっている間にも夜は更けてゆく。
 
身重の女御には長時間同じ姿勢をとり続けるのは辛く、筝の琴を紫の上に譲られ、和琴は源氏に差し上げられました。
紫の上さまの筝の琴はまたどのような響きなのであろう、夕霧の心ははやうきうきと落ち着かなくなります。
そうしてつと奏でられた音色の華やかなこと。
女御の奏でられた爪音は可憐で弦を押さえて揺する音も深く澄んで聞こえましたが、紫の上の手はまた趣ががらりと違って聞こえます。
ゆるやかでありながら独特の間や溜め、そして流れるような爪音が才気を感じさせます。

ああ、なんと素晴らしい音色を奏でられるのか。

夕霧は落涙せんばかりに心を大きく揺さぶられておりました。
「ついつい興に乗ってこんなに夜更けてしまった。子供たちには眠かろうに悪いことをしたね」
そうして女君たちから夕霧の大将や御子らに褒美の見事な品々が差し上げられると、源氏は傍らの几帳に控える女三の宮に拗ねたように訴えました。
「それは本日の主役は御身をはじめ女性たちではありますが、師匠である私の影の功労の賜物といえましょう。ご褒美はないのですか?」
「それではこちらをお納めくださいませ」
女三の宮は几帳の隙間から雅な綾織に包まれた高麗笛を差し出しました。
「これはご由緒がありそうな名笛ですな。ありがたく頂戴いたしましょう」
源氏は褒美にいただいた高麗笛を吹き鳴らし始めました。
まるでその音色に導かれるように、退場の合図として客人は邸を後にしてお開きとなったのです。

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